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福岡国際大学紀要 No.22 9~32(2009) - http://www.fukuoka-int-u.ac.jp/lib/fiu-kiyo/fiu22-2.pdf
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この「魔法の公式」はまったくの捏造である。『クワルト=スタート』の「若者たち」が、かくも尊大な饒舌さでもって似たような真実の歪曲をあえてしているのであれば、かれらはきわめて知的な自分たちの読者にすこしの敬意も払っていないことになろう。その証拠にここに『オルディネ=ヌオーヴォ』紙 (Ordine Nuovo) *4 (1920年1月3日号) の一節がある。トリーノの共産主義者たちの考え方はこのなかに要約されている。
北部のブルジョワジーは南部イタリアと島嶼部を征服し、搾取のための植民地にかえてしまった。北部のプロレタリアートが、資本主義的隷属状態から自己を解放するならば、かれらは北部の銀行と寄生的産業主義に隷属された南部農民大衆をも解放するであろう。農民の経済的・政治的な再生は、未開墾地や不良耕地の分割にもとめられるべきではなく、工業プロレタリアートとの連帯にもとめられるべきである。工業プロレタリアートのほうでも農民との連帯を必要としており、かれらは、資本主義が土地所有から経済的に再生しないことで利益をえるし、南部イタリアと島嶼部が資本主義反革命の軍事基地とならないことによって利益をえる。プロレタリアートは、労働者による管理を工業に命じることで、工業を、農民のための農業機械の生産、農民のための衣類や靴の製造、農民のための電力生産へと向かわせるであろう。プロレタリアートは、工業と銀行がこれ以上農民たちを搾取し、農民を奴隷のようにかれらの金庫にしばりつけはしないであろう。工場での専制 (autocrazia) を粉砕し、資本主義国家の抑圧装置を粉砕して、資本家を有益な労働規律に従わせる労働者国家を樹立することにより、労働者は農民たちを悲惨と失望にしばりつけているあらゆる鉄鎖を断ち切るであろう。労働者独裁を樹立し、工業と銀行を掌握したプロレタリアートは、国家組織の巨大な力 (potenza) を、農民による地主・自然・悲惨との闘いの支援に向かわせるであろう。プロレタリアートは、農民に信用貸をおこない、協同組合を設け、掠奪者から個人の安全と財産を保証し、土地改良・灌漑の公共事業をなすであろう。プロレタリアートがこうしたことすべてを実行するのは、農業生産の促進がかれらの利益となるからであり、農民大衆と連帯しこれを維持することがかれらの利益となるからであり、工業生産を都市と農村および北部と南部との和合 (pace) と友好 (fratellanza) にとって有益な労働に仕向けることがかれらプロレタリアートの利益となるからである*5。
これは1920年1月に書かれた。それから7年が過ぎ、われわれは政治的にも7年としをとった。基本理念 (concetto) のいくつかは現在のほうがうまく表現できるであろう。また、労働者による単純な工業管理に特徴づけられる、国家奪取に直接つづく時期と、その後の時期とをよりはっきりと区別できるし、また区別しなければならない。だが、ここで強調すべきは、トリーノの共産主義者の基本的な理念が大ラ ティフォンド土地所有の分割といった「魔法の公式」ではなく、ブルジョワジーを国家権力から打倒するための北部労働者と南部農民の政治同盟という理念であったということである。そればかりでなく、 (二つの階級の連帯行動に従属するものとしての土地分割をただ支持していた) まさにトリーノの共産主義者たちこそ、大ラ ティフォンド土地所有の機械的分割への「奇跡主義者的」幻想の危険を警告していたのだ。1920年1月3日のおなじ記事にはつぎのようにも書かれている。「貧農が未開墾地や不良耕地に侵入してなにを得るのか。仕事場には機械もなく、家もなく、収穫を待つまでの信用貸付もなく、 (たとえ藪のなかでもっとも頑丈な灌木や、未開墾地のなかでもっとも発育のよい野生イチジクの木に早々と首を括ることなくうまく収穫できたにせよ) その収穫物を買い上げて高利貸しの爪牙から守ってくれる協同組合機構もなく、貧農はそのような土地に分け入ってなにを得ることができようか」と。しかしながら、われわれは「農民に土地を」というきわめて現実主義的だがまったく「魔法」ではない公式に賛成したのだった。それどころか、われわれは、この現実主義的な公式が、工業プロレタリアートの指導下で[北部労働者階級と南部農民階級という]同盟をむすんだ二つの階級による全般的な革命行動のなかに組み込まれることを望んでいた。『クワルト=スタート』誌の書き手らは「魔法の公式」をでっちあげてトリーノの共産主義者たちのせいにした。
こうしてかれらは、自分たちが真摯なジャーナリストではなく、田舎の薬屋の臆面もない知識人ぶりを証した。
だが、こうした知識人もまた重要であるし、影響をもたらす政治的要素なのである。
プロレタリアート陣営にあって、トリーノの共産主義者たちには反論の余地なき「功績」 (merito) があった。
それは、前衛的労働者に南部問題を注目させ、革命的プロレタリアートの国内政治に不可欠の諸問題のひとつとして提示したからである。この意味でかれらは、南部問題を、その不明瞭で主知主義的で、いわゆる「具体主義的」*6な局面から脱して新局面に入れることに実質的に貢献した。トリーノとミラーノの革命的労働者は南部問題の主役となった。『クワルト=スタート』の「若者たち」にとって愛する聖人たちの名のみあげるが、ジュスティーノ=フォルトゥナート*7やガエターノ=サルヴェーミニ*8、エウジェーニオ=アツィモンティ*9、アルトゥーロ=ラブリオーラ*10といった人々はもはや南部問題の主役ではない。
トリーノの共産主義者たちは「プロレタリアートのヘゲモニー」の問題、すなわちプロレタリア独裁と労働者国家の社会的基礎の問題を具体的に分析してきた。プロレタリアートが指導階級・支配階級となりうるのは、かれらが勤労者人口の大部分を反資本主義と反ブルジョワ国家に動員できる階級同盟体系 (sistema di alleanze diclassi) をどの程度までうまく創出できるかどうかにかかっている。つまりそれは、イタリアにおいて、イタリアに現存する実際の階級関係のなかで、広範な農民大衆の同意をどれほど獲得できるかどうかを意味する。しかし、イタリアの農民問題は歴史的に規定されたものであり、「農民・農業問題一般」ではない。イタリアでは、農民問題は、特殊イタリア的伝統のために、また、イタリアの特殊な史的展開のために、南部問題とヴァティカン問題という典型的で特異な二つの形態をとってきた。
したがって、イタリアのプロレタリアートにとって農民大衆の大部分を獲得するということは、この二つの問題を社会的観点から自己の問題とし、農民大衆が提示する階級的な諸要求を理解し、この要求を自己の臨時革命綱領にくみいれ、革命綱領の闘争要求事項のなかにこうした諸要求をならべるということを意味する。
トリーノの共産主義者たちが解決すべき第一の問題は、国家生活という複合体のなかで暮らし、学校・新聞・ブルジョワ的慣習 (tradizione borghese) からの影響を無意識にこうむっている国民要素としてのプロレタリアート自身の政治方針と全般的なイデオロギーを修正することであった。ブルジョワジーの宣プロパガンディスティ伝者たちによってどのイデオロギーが北部大衆のなかに毛管状に浸透したかは周知のことである。―すなわち、南部はイタリアの文明的発展のより急速な進歩を阻害する鉛の足枷である。
南部人 (meridionali) は自然の宿命により、生物学的にいっそう劣った人間 (esseri inferiori) であり、半野蛮人あるいは完全な野蛮人である。もし南部が遅れているとすれば、その罪は、資本主義制度その他いかなる歴史的原因にあるのでもなく、南部人を怠け者・無能者・犯罪者・野蛮人にしている自然にある。乾燥し不毛の砂漠に立つ孤独なヤシのような偉大なる天才の純粋に個人的な突発的出現 (esplosione) が、この無慈悲な運命をやわらげるのである、と。社会党はほとんどの場合、北部プロレタリアートのなかで、こうしたブルジョワ=イデオロギーの媒介物であった。社会党は、フェッリやセルジ、ニチェーフォロ、オラーノやそのほか二流の追随者たちといった、いわゆる実証主義学派*11 のモノ書き連中の「南部問題専門的」な著作全体にお墨つきをあたえてきた。かれらは、記事・エッセイ・長短編小説・印象記・回想記で、同じ決まり文句をさまざまにくり返してきた。またしても「科学」は貧しき人びとや搾取された人びとを抑圧するのに向けられたが、こんどは科学は社会主義という色彩で身をつつみ、プロレタリアートの科学であると自惚れていたのだった。
トリーノの共産主義者たちは、ほかでもないトリーノにおいて、こうしたイデオロギーにたいし精力的に反抗した。トリーノではそれまで、半島南部や島嶼部での匪ブリガンタッジ賊行為との戦闘に参加した退役軍人の話や叙述が、民間伝承や民衆の精神に、よりおおきな影響をおよぼしていたのだった。トリーノの共産主義者たちは、事実、精力的に反抗し、きわめておおきな歴史的価値をもつ具体的な成果の獲得に成功した。また、ほかならぬトリーノにおいて、南部問題の解決となるような諸々の萌芽 (embrioni) の獲得に成功した。
他方、すでに[第1次世界大戦]戦前、あるひとつの偶エピソード発事がトリーノで発生したが、それは共産主義者たちが戦後に展開した行動と宣伝活動のすべてを潜在的にふくむものであった。1914年、ピラデ=ガイ*12の死去にともなってトリーノ第4選挙区が欠員となり、新しい候補者問題がもちあがったとき、のちに『オルディネ=ヌオーヴォ』紙の編集者となる社会党支部の一グループは、候補者としてガエターノ=サルヴェーミニを推薦する計画を検討した。当時、サルヴェーミニは、急進的な意味で、南部農民大衆のもっとも先進的な代弁者だった。かれは社会党の外にあり、むしろ社会党にたいしてきわめて活発で危険な政治運動をおこなっていた。なぜなら、サルヴェーミニの主張や非難は、南部勤労大衆が、トゥラーティやトレヴェス、ダラゴーナ*13 にたいしてばかりでなく、工業プロレタリアート全体にたいしていだく憎悪の原因となったからである。 (1919年、20年、21年、22年と近衛兵が労働者たちに向けて放った銃弾の多くは、サルヴェーミニの記事を印刷するのに用いられたのとおなじ鉛で鋳造されていた) 。しかしながら、このトリーノのグループは、立候補の承諾を得るためにフィレンツェに赴いたオッターヴィオ=パストーレ*14同志からサルヴェーミニ本人に説明されたつぎのような方向で、サルヴェーミニの名にかけてひとつの主張をしたかった。
すなわち、「トリーノの労働者たちはプッリアの農民のために代議士を選びたいとおもっている。トリーノの労働者たちは、1913 年の総選挙においてモルフェッタとビトント*15の農民たちが圧倒的多数をもってサルヴェーミニに票を投じようとしていたこと、だが、ジョリッティ政府の行政的圧力と悪辣な選挙ブローカー (mazzieri) *16と警察との暴力により、プッリアの農民たちが自分たちの意思を表明できなかったことを知っている。トリーノの労働者たちは、党についても、綱領についても、議員団への規律についても、サルヴェーミニにけっして義務をもとめているのではない。ひとたび候補者として選出されたなら、サルヴェーミニはトリーノの労働者たちにではなく、プッリアの農民たちに呼びかける。トリーノの労働者たちのほうも、自分たちの原則にしたがって選挙宣伝活動をおこない、サルヴェーミニの政治活動にまったくしばられないであろう」。
サルヴェーミニは、この提案に衝撃をうけ、感動すら覚えたけれども、立候補を引きうけようとしなかった。
(その頃にはまだ共産主義の「背信」 (perfidia) が話題にならなかったし、われわれは下心もなく良好な関係だった) 。かれは候補者としてムッソリーニを推薦し、選挙戦の期間に社会党を応援するためにトリーノを訪れようと約束した。事実、サルヴェーミニは、大衆的熱狂のなか、労働会議所とスタトゥート広場で二度の大集会を開いた。大衆は、北部プロレタリアートよりさらに憎しみをかきたて我慢ならないかたちで抑圧され搾取されている南部農民の代表をサルヴェーミニのなかに見て拍手をおくった*17。
このエピソードのなかに潜在的にふくまれている指針は、ただサルヴェーミニの意向によって、よりおおきな進展をみることはなかったが、戦後、共産主義者によってふたたびとりあげられ、とりくまれた。そのうちのなかでもっとも突出し、暗示的なできごとを想起しよう。
1919年、やがてサルデーニャ行動党 (Partito Sardo d'Azione) *18となる組織の出発点・前提である「青年サルデーニャ」 (Giovane Sardegna) という組織が結成された。「青年サルデーニャ」はサルデーニャ島と半島本土の全サルデーニャ人をひとつの地域ブロックに統合し、政府に有効な圧力をかけて、政府が兵士と戦時中に交わした約束の履行を目的としていた。半島本土における「青年サルデーニャ」の組織者はピエトロ=ヌッラ教授*19とかいう人物で社会主義者だった。現在はきっと、毎週『クワルト=スタート』紙で探査すべきなにか新たな地平を発見している「青年」グループのひとりであろう。
弁護士や教授や官吏たちは、「青年サルデーニャ」が十字勲章やコンメンダトーレ勲位やさまざまの勲章を釣りあげるあらゆる新しい可能性をつくってくれると熱狂し、これに加入していた。ピエモンテ在住のサルデーニャ人のためにトリーノに召集された結成大会は、参加者数の点では堂々たる成功に終わった。大多数は貧乏人、さしたる資格のない人びと、作業場の人足、低額年金受給者、多種多様な小商店を営む元憲カラビニエーレ兵や元看守や元財務警備隊員だった。かれらは、同郷者のなかでくつろぎ、親類や友人や思い出や苦悩や希望といった無数のきずなでずっと結ばれていた自分たちの土地の話を聞けるという思いでみな興奮していた。希望とは、たとえつましくとも、昔にくらべれば豊かで恵まれた暮らしをあたえてくれる、故ふるさと郷に帰ることであった。
正確には8人のサルデーニャ出身の共産主義者たちが、この結成集会に向かい、反対報告を要求する動議を議長に提出した。しかし、地域主義的なことあげのありとあらゆる優美さと情愛で飾られた正式報告者の熱情こもる修辞的な演説のあとで、また、参加者が過去の悲しみと大戦中にサルデーニャ出身者の諸連隊によって流された血の記憶に涙し、サルデーニャのすべての高潔な息子たちの堅固な連ブロック合構想に錯乱するほどまでに熱狂したあとで、―反対報告を「売り込み宣伝する」 (piazzare) のはとても困難だった。もっとも楽観的に見積もっても、「群衆の気高い激怒」の結末から逃げのびたにしても、リンチでなければ最低でも警察に送りこまれるところだった。ところが反対報告は、たとえとてつもない驚愕をひきおこしたにせよ、注意ぶかく傾聴された。そして、ひとたび正式報告の呪縛が解かれると、急速に、だが整然と、革命的結論に達した。二者択一のディレンマがある。
すなわち、〈あなたがたサルデーニャの貧乏人 (poveridiavoli) は、あなたがたを破滅させ、資本主義的搾取の地方監督であるサルデーニャの金持ち (signori) との連ブロック合に賛成なのか、あるいは搾取者をすべて打倒し、すべての抑圧されている者たちを解放したいとおもう半島本土の革命的労働者との連ブロック合 に賛成なのか?〉。このディレンマは出席者全員の頭のなかに染みこんだ。
二ディレンマ者択一の分断投票 (voto per divisione) はおそるべき成功を博した。一方には、同意のつけ合わせとして40人ほどの警官をともない、派手なマダムたちやシルクハットの官吏たち、怒りと恐怖に青ざめた専門家たちの小グループが、他方には、ごく小さな共産主義細胞をかこんで、大勢の貧乏人と祭りの晴れ着を身につけた若い女たちがいた。1時間後、労働会議所には、256名の加入者によるサルデーニャ社会主義教育サークルが結成された。
だが、「青年サルデーニャ」の結成は無期限に延期され、もはや見ることはなかった*20。
こうしたことが、ほとんど完全に[サルデーニャという] 地域的な構成の旅団であるサッサリ旅団 (Brigata Sassari) の兵士のあいだで実行された行動の政治的基盤であった。サッサリ旅団はすでに1917年夏のトリーノ暴動の弾圧に参加していた*21。確かであったのは、サッサリ旅団は労働者と絶対に親しくならないであろうということだった。それは、鎮圧のひとつひとつが群衆のあいだに残した憎しみ、その鎮圧の肉体的道具[サッサリ旅団]にたいしてさえも残した憎しみの記憶によるものであり、他方、連隊のなかには、蜂起者[トリーノの人びと]の痛撃に斃れた兵士たちの記憶があった。旅団は大勢の紳士・淑女から迎えられ、兵士たちは花やタバコや果物を贈られた。最初の宣伝活動調査にあたったサッサリ出身の革なめし工のつぎの話が兵士たちのきもちをよく伝えている。「わたしは第10広場の野営 (兵士たちは征服した都市であるかのように、はじめの数日間は多くの広場で野営をしていた) にちかづき、同じ[サルデーニャ島北部の中核都市]サッサリ出身だということでよくしてくれていたひとりの若い農民[兵]に話しかけた。―トリーノに何をしにきたのかい? ―俺たちはストをやる金持ちに一発お見舞いするためにやってきたんだ。―でもストをしているのは金持ちではなく、労働者や貧乏人だよ。―ここにいるのはみんな金持ちだよ。みんなカラーやネクタイをしているし、日に30リラも稼ぐじゃないか。貧乏人なら俺も知っているし、どんな身なりかも知っているよ。サッサリじゃ、そうさ、貧乏人がたくさんいるよ。「農夫」 (zappatori) はみんな貧乏で、稼ぎは一日に1.5リラさ。―でも、ぼくだって労働者で貧乏だよ。―きみが貧乏なのはサルデーニャ人だからさ。―で、もしぼくが他の人たちとストをしたら、きみは私を撃つかい? ― (その兵士はすこし考え、それからわたしの肩に手をおいて) 、いいかい、他の者とストをするときには、家にひっこんでいろよ!」。
これが旅団の大多数の心理だった。旅団には[銀・銅・鉄・亜鉛など、フェニキア人によるカルタゴ植民都市時代より知られる]イグレシアス盆地の鉱山労働者はごく少数しかいなかった。しかし、数箇月後、7月20日-21日のゼネスト直前、旅団はトリーノから遠ざけられ、老兵たちも除隊させられた。旅団は三分割され、アオスタとトリエステとローマにそれぞれ送られた。旅団は夜、突然に出発させられた。あの上品な群衆は誰ひとり駅で拍手喝采しなかった。兵士たちの唄は、あいかわらず戦歌だったが、トリーノに到着してきたときに唄われていたものともう同じ内容ではなかった*22。
上記のできごとは、なんの結果もないままであったか? 否、それらは成果を残し、こんにちでも人民大衆の奥おうてい底 になお存在して作用しつづけている。それらは、これまでそのような方向では思考したことがなかった頭脳を瞬時に啓蒙し、その頭脳はつよく印象づけられて根本的に修正されてしまった。われわれの記録文書類は散失してしまった。逮捕や迫害の原因にならないように、われわれ自身で多くの書類を処分したのだ。だが、われわれはサルデーニャから『アヴァンティ!』トリーノ編集部に届いた何十通、何百通の手紙をおぼえている。しばしば共同で書かれたり、ある限定的な地域のサッサリ旅団の元兵士全員の署名入りの手紙がしばしばあった。
統制されえない、また統制しえないやり方をつうじ、われわれの支持する政治的姿勢はひろまった。サルデーニャ行動党の結成はその基礎のところでわれわれの政治的姿勢からつよい影響をうけたが、これにかんしては内容と意味にとむエピソードを想起することが可能だろう。
こうした行動について確認できる最期の反響は1922年に起こったが、このとき、サッサリ旅団と同じ目的でカッリアリ憲兵隊 (Regione di Cagliari) から300人がトリーノに派遣された。われわれは、『オルディネ=ヌオーヴォ』の編集部で、この憲兵の大部分が署名した原則宣言を受けとった。それは南部問題にかんするわれわれの提起のすべてに共鳴しており、われわれの方針の正しさをしめす決定的な証拠であった。
プロレタリアートは、自分たちのこの方針を実行して政治的能力 (efficienza politica) を付与しなければならないのだったが、これは言うまでもないことだ。いかなる大衆行動もそれが可能となるのは、大衆自身が到達したい目標と適用すべき方法とを確信している場合である。
プロレタリアートが階級として統治可能であるためには、あらゆる同業組合的残滓、あらゆる組合主義的な偏見と外被を脱ぎ捨てなければならない。これはなにを意味するのか? それは、職業間に存在する差別が克服されねばならないのみならず、農民や都市に住む半プロ階層 (categorie semiproletarie) の信頼と同意をかちとるためにいくらかの偏見を克服し、労働者階級内部で諸々の職業的排他主義 (particolarismi di professione) がなくなったときにもなお階級として労働者階級のなかに実在しうる、また実在するある種の利エ ゴイズム己主義を克服する必要があるということである。金属労働者・大工・建設労働者らは、プロレタリアとして思考するだけでもいけないし、また、もはや金属労働者・大工・建設労働者などとして思考してもならない。さらに一歩前進し、農民や知識人の指導をめざす階級の一員、これらの社会層の大多数に支持され追随されときにはじめて勝利し、社会主義を建設できる階級の一員である労働者として思考しなければならないのである。もしこれが達成されなければ、プロレタリアートは指導階級になれず、イタリアで国民の大部分を代表しているこの階層はブルジョワジーの指揮下にとどまり、プロレタリアの勢いをくい止めて衰弱させる可能性を国家にあたえるのである。
それはそれとして、南部問題の領域で起きたことは、プロレタリアートがこうした自己の義務を理解していることを証明していた。つぎのふたつの事件が想起されるべきである。一件はトリーノで起き、もう一件はレッジョ=エミーリア、すなわち、改良主義・階級的同業組合主義 (corporativismo di classe) の牙城、たとえば「南部主義者たち」 (meridionalisti) が南部農民のあいだでおこなう宣伝活動にもちこんだ労働者保護主義の牙城 (cittadella) で起きた。
[1920年9月の]工場占拠のあと、フィアット (FIAT) 首脳陣は協同組合形式での企業経営を労働者に提案した。
当然のごとく、改良主義者たちは賛成した。[第1次大戦後の]産業恐慌 (crisi industriale) が切迫していた。
失業の脅威が労働者家族に不安をあたえていた。もしフィアットが協同組合になれば* 2 3、一般労働者 (maestranza) 、とりわけ解雇されるものと思いこんでいた政治的にもっとも精力的な労働者たちは、ある程度の雇用保証をえたかもしれない。
共産主義者が指導する社会党トリーノ支部はこの問題に精力的に関与した。労働者にこう述べた。―労働者がフィアットのような大企業を協同組合方式で引きつげるのは、労働者が今日イタリアを統治しているブルジョワ政治勢力体系のなかに入ってゆくことを決意した場合のみである。フィアット経営陣の提案はジョリッティ的政治構想にもどるのである。この構想はなにに根拠をおいているのか? ブルジョワジーはすでに戦前から、もはや平穏には統治できなくなっていた*24。1894年のシチリアの農民暴動と1898年のミラーノの暴動はイタリア=ブルジョワジーの決定的実験 (experimentum crucis) であった。1890年から1900年にいたる流血の10年ののち、ブルジョワジーはあまりに排他的、あまりに暴力的、あまりに直截的な独裁を放棄しなければならなかった。南部の農民と北部の労働者は、調和して行動することはなかったにせよ、ブルジョワジーにたいして同時に4 (simultaneamente) 蜂起した。新世紀[ 20世紀]にはいると、支配階級は、階級同盟、階級的政治ブロック、つまりブルジョワ民主主義の新しい政治をはじめた。支配階級はつぎのいずれかを選択しなければならなかった。
すなわち、農村民主主義、つまり南部農民との同盟・関税自由化・普通選挙・行政の地方分権化・工業製品の低価格といった政策か、それとも、普通選挙なき、関税保護主義・中央集権国家維持 (ことに南部および島嶼部の農民へのブルジョワ支配という表出) ・賃金と労働組合の自由という改良主義政策をめざす資本家-労働者の工業ブロックか。支配階級は、当然、二番目の解決策をえらんだ。ジョリッティはブルジョワジーの支配を体現した。社会党はジョリッティ政治の道具となった。よく観察すれば、1900年から1910年までの10年間、社会主義運動と労働運動においてもっとも根本的な危機がいくつも生じていることがわかる。すなわち、大衆は改良主義指導者たちの政治活動 (politica) にたいして自らすすんで反撥しているのだ。サンディカリズム*25が誕生した。
それは本能的・初歩的 (elementare) ・原始的だが、健全な表現であり、ブルジョワジーとのブロックに反対し、農民、まず第一に (in primo luogo) 南部農民とのブロックをもとめる労働者の反抗の表現だった。まさしくそうなのだ。むしろ、ある意味で、サンディカリズムとは、より進歩的な知識人たちに代表される南部農民がプロレタリアートを指導しようとする弱々しい試みなのである*26。イタリア=サンディカリズムの指導的中核はだれによって構成されているのか、イタリア=サンディカリズムのイデオロギー的本質はなにか? サンディカリズムの指導的中核は、ラブリオーラ、レオーネ、ロンゴバルディ、オラーノなど、ほぼ独占的に南部人によって構成されている*27。サンディカリズムのイデオロギー的本質は、これまでの自由主義よりもさらに精力的で過激かつ好戦的な、新しい自由主義である。よく観察すると、ふたつの基本的な契機があり、これにかんし、サンディカリズムのあいつぐ危機、およびサンディカリズム指導者のブルジョワジー領域への漸次的な移転が生起している。移民と自由貿易というふたつの契機は南部主義と密接にむすびついている。移民現象はエンリーコ=コッラディーニ*28の「プロレタリア民族」 (nazioneproletaria) という概念を生みだしている。また、リビア戦争はある知識階層全体の目には、資本主義的・金権主義的世界への「おおいなるプロレタリア」の攻撃開始と映る。サンディカリストのひとつのグループ全員がナショナリズムにまわるが、いやむしろ国家主義政党はもともとモニチェッリ、フォルジェス=ダヴァンザーティ、マラヴィッリアといった元サンディカリストの知識人によってつくられたのである*29。ラブリオーラ書『10年史』 (1900年から1910年までの10年) は、反ジョリッティ的・南部主義的な新自由主義のもっとも典型的で象徴的な表現である*30。
この10年間、資本主義は強化され発達して、ヴァッレ=パダーナ[ Valle Padana、ポー川流域平野]の農業にその活動の一部を注ぎこんでいる。この10年のもっとも象徴的な特徴は、ヴァッレ=パダーナの農業労働者大衆によるストライキである。根本的な大変動が北部農民のあいだに生まれ、根本的な階級分化が起こった (1911 年の国勢調査データによれば、日ブ ラツチヤンティ雇い農業労働者の数は50%上昇している) 。そしてこれに政治的潮流と精神的態度の再編が対応する。キリスト教民主主義とムッソリーニ主義 (mussolinismo) はこの時代のもっともきわだった二つの産物である。ロマーニャはこの二つの新奇な行動の地域的なルツボ (crogiolo) となっており、日ブラツチヤンティ雇い農業労働者が政治闘争の社会的主役となったかにみえる。社 (ママ) 会民主主義[正しくはキリスト教民主主義]の左派組織 (チェゼーナの『行アツィオーネ動』*31 ) およびムッソリーニ主義もまたすぐさま「南部主義者」の統制のもとにおちいる。チェゼーナの『行動』紙はガエターノ=サルヴェーミニの『ウニタ』紙の地方版である。ムッソリーニ編集の『アヴァンティ!』は、ゆっくりとだが着実に、サンディカリストや南部主義者の書き手たちにとっての修練場へと化してきた。ファンチェッロ、ランツィッロ、パヌンツィオ、チッコッティがその熱心な寄稿者となっている。サルヴェーミニですらムッソリーニへの共感をかくさない。ムッソリーニはプレッツォリーニの『ヴォーチェ』 (La Voce) 誌の秘蔵っ子 (beniamino) にさえなっている*32。現実に、ムッソリーニが『アヴァンティ!』と社会党から出てゆくとき、サンディカリストや南部主義者のこうした一群に囲まれていたことを、誰もがおぼえている*33 。
革命的陣営でのこの時期のもっとも顕著な反響は1914年6月の「赤い一週間」 (Settimana rossa) *34である。
ロマーニャとマルケが「赤い一週間」の震源地だった。
他方、ブルジョワジーの政治的陣営でのもっとも顕著な結果はジェンティローニ協定 (patto Gentiloni) *35である。ヴァッレ=パダーナの農業運動の結果、社会党が1910年以後、非妥協的戦術にもどったために、ジョリッティに支持され代表されていた工業ブロックはその有効性をうしなう。そこで、ジョリッティは銃をのせる肩をおきかえる。つまり、ブルジョワジーと労働者の同盟から、ブルジョワジーと北部・中部イタリアの農民大衆を代表するカトリックとの同盟に変更するのである。この同盟のためにソンニーノ*36の保守派は完全に崩壊し、南部イタリアでのみアントニオ=サランドラ*37の周囲にごく小さな細胞を維持するにすぎない。戦中・戦後には、ブルジョワ階級内部でもっとも重要度のたかい一連の分子化過程の展開がみられた。サランドラとニッティ*38の二人は南部出身で最初の首相であった (もちろん、クリスピ*39のようなシチリア人にはふれない。クリスピは19世紀におけるブルジョワ独裁のもっとも精力的な代表者だった) 。サランドラは保守の領域で、ニッティは民主主義の領域で、工業ブルジョワジー-南部大地主の構想 (piano borghese industriale-agrario meridionale) を実現しようと模索した (この両首相はともに『コッリエーレ=デッラ=セーラ』紙Corriere della Sera、すなわちロンバルディーアの繊維工業の堅固な支援をうけていた) 。サランドラはすでに戦時中、南部の利益のため、国家機関の専門技術者たちを配置転換しようとした。つまり、ジョリッティの国家スタッフを、ブルジョワジーの新たな政治方針 (nuovo corso politico) を具現するための新たなスタッフにおきかえようともくろんだのである。諸君は、国家の「プッリア化」*40を阻むためにジョリッティ派と社会党間の緊密な協力をもとめて、とりわけ1917年-1918年に[ジョリッティ支持の]『スタンパ』紙 (La Stampa) が展開したキャンペーンを覚えているだろう。あのキャンペーンはフランチェスコ=チッコッティによって『スタンパ』紙上でなされた。つまり、それは事実上、ジョリッティと改良主義者とのあいだに存在した合意の一表現だった。問題はたわいもないことではなかった。ジョリッティ派は自己防衛に執心するあまり、大ブルジョワジーの党派にゆるされた限界をついにはのりこえるにいたった。そして、だれしも記憶しているが、反愛国主義と敗北主義のあの示威運動にまでゆきついたのだった*41。こんにち、ジョリッティはふたたび権力の座にあり*42、人民大衆の激烈な動きをまえにして自分たちを襲うパニックに対処しようと、大ブルジョワジーはふたたびジョリッティをたのむ。ジョリッティはトリーノの労働者を手なずけたいとおもっている。
ジョリッティはかれらを二度たたきのめした。このまえの[ 1920年]4月ストと工場占拠の二度ともCGdL (労働総同盟) すなわち同業組合的改良主義がジョリッティに力ぞえした*43。ジョリッティはいま、労働者たちをブルジョワ的国家体系にくみこむことが可能であると考えている。実際、フィアット労働者たちが経営陣の提案を受けいれるならば、なにが起こるだろうか? 現在の工業株券は社債となるだろう。すなわち、協同組合は、総売上高がどうであっても、債券保有者に一定の配当を支払わなければならないのだ。[協同組合化した] フィアット社は、なお資本家たち (borghesi) が手中におさめている諸々の信用機関によって、あらゆる方法でカネをゆすりとられる。資本家たちは労働者をおもうがままにして儲けるのである。労働者全般 (maestranze) が必然的に国家に結びつかざるをえなくなり、国家は、労働者議員の仕事をつうじ、労働者の政党を政府の政策に従属させることをつうじて、「労働者を助けるだろう」。
そう、これが完全に適用されたときのジョリッティ構想である。そうなれば、トリーノのプロレタリアートはもはや独立した階級としては存在せず、ただブルジョワ国家の付属品 (appendice) として存在するにすぎない。
階級的同業組合主義 (corporativismo di classe) は勝利するだろうが、プロレタリアートは指導者・案内役のその地位と役割を失ってしまうであろう。トリーノのプロレタリアートは、さらに貧しい労働者大衆の目には特権を浴する者に映るだろうし、農民大衆には資本家同様の搾取者とみえるであろう。なぜなら、ブルジョワジーは、いつもそうであったように、特権的な労働者中核集団 (nuclei operai privilegiati) を、農民大衆にかれらの不運と悲惨の唯一の原因としてみせるであろうからである。
フィアットの工場労働者はほとんど全員一致でわれわれの観点をうけいれ、経営陣からの提案は拒否された。
しかし、この経験で十分のはずはなかった。トリーノのプロレタリアートは、一連の行動全体をつうじ、政治的な成熟と能力の最高段階にまで到達したことをしめしていた。職場の技術者や事務職員たちが1919年に待遇を改善できたのは、ひとえに労働者に支持されたからである。
技術者の戦闘的な運動を抑えつけるため、工業家たちはあたらしい工長 (capisquadra) や現場主任 (capireparto) を労働者自身による選挙で指名しないかと労働者に提案してきた。これまでつねに経営者側の抑圧・迫害の道具となってきた技術者とは相当の衝突理由をもっていたにもかかわらず、労働者たちはこれを拒絶した。当時、新聞は技術者を孤立させようと猛烈なキャンペーンをおこない、月給7000リラにおよぶ高額の給与をきわだたせ書きたてた。熟練工 (operai qualificati) は未熟練工 (manovali) の運動を支援し、未熟練工はそうしてはじめて要求貫徹に成功したのである。工場のなかでは、低熟練クラスを犠牲にした高熟練クラスのあらゆる特権と搾取が一掃された。このような活動をつうじて、プロレタリア前衛は前衛たるその社会的地位を手にいれた。これがトリーノでの共産党発展の基礎となった。だが、トリーノ以外ではどうか? で、われわれはトリーノの外、改良主義と階級的同業組合主義の大結集が存在したまさにレッジョ=エミーリアに、本気で問題をもっていくつもりだった。
レッジョ=エミーリアはつねに「南部主義者」の標的だった。「イタリアは北部人 (noridici) と南部人 (sudici) にわかれる」というカミッロ=プランポリーニ*44の表現は、北部の労働者にたいし南部人のあいだでまき散らされてきた激しい憎しみのもっとも典型的な表現であった。レッジョ=エミーリアでもフィアットの場合と同様の問題があらわれていた。ある大工場が協同企業体 (azienda cooperativa) として労働者の支配下に移行することになったのである。レッジョの改良主義者たちはこの件に熱狂し、自分たちの新聞や集会でふれまわった。
トリーノの共産主義者がひとりレッジョにおもむいて工場の集会で話をし、北部と南部のあいだに横たわっている問題の全般を説明した。すると「奇跡」がうみだされた。大多数の労働者たちが改良主義的・同業組合的な主テーゼ張 をしりぞけたのである*45。改良主義者はレッジョの労働者たちの精神を代表していないということが判明した。かれらは受動性とその他の消極的諸側面のみを代表していたにすぎない。改良主義者たちが政治的な独占を構築できたのは、ある程度の職業的価値をもつ組織者と宣伝活動家を改良主義の隊列にかなり集中していたからであり、それゆえ革命的な流れの発展と組織化を阻止できたのである。だが、改良主義者たちを身動きできなくし、レッジョの労働者が勇敢な闘士であって政府の飼かいば葉 で飼育される豚でないことをはっきりさせるのに、ひとりの有能な革命家の存在でこと足りたのだった。
1921年4月、革命的な5000労働者がフィアットから馘首され、工場評議会 (Consigli di Fabbrica) は廃止され、実質賃金は引き下げられた。レッジョ=エミーリアでもたぶん同様のことが起きた。つまり、労働者は打ちのめされたのである。しかし、かれらが払った犠牲は無益であったか? われわれはそうはおもわない。いや、それは無益ではなかったと確信する。たしかに、こうした行動の即時即刻の効果を立証するような一連の大衆的大事件の全体を記録するのは困難である。そのうえ、農民の場合、こうした記録はつねに困難であり、ほとんど不可能である。南部の農民大衆にかんしてはさらにずっと困難である。
南部は大規模な社会的解体 (grande disgregazionesociale) にあると定義することができる。農民は住民数の大多数を占めるものの、相互の凝集力はまったくない。
(もちろん、一部の例外もみなければならない。プッリア、サルデーニャ、シチリアには、南部的構造の大枠にあっても破格の特徴が存在する) 。南部社会は三つの社会層からなる一大農業ブロック (blocco agrario) である。すなわち、無定形で分解した広大な農民大衆、農村部の中小ブルジョワ知識人、大土地所有者と大知識人である。南部農民はたえず動揺しているが、大マス衆的塊として自分たちの渇望や要求に集中的表現をあたえることができない。中位の知識人層は農民基盤から政治的・イデオロギー的活動の刺激をえている。政治的領域の大土地所有者とイデオロギー領域での大知識人はつまるところ、諸々の表出全体を集中し支配する。当然のことだが、集中化がよりおおきな効果と正確さで立証されるのはイデオロギーの領域においてである。それゆえ、ジュスティーノ=フォルトゥナートとベネデット=クローチェは南部体系の要石を象徴し、またある意味で、イタリア反動の二大巨頭である。
南部知識人はイタリアの国民生活でもっとも興味ぶかく、もっとも重要な社会的階層である。このことを納得するのに、国家官僚の5分の3以上が南部出身者であることを考えれば十分だ。ところで、南部知識人の特異な心理を理解するためには、下記のように、いくつかの事実を考慮にいれる必要がある。
1.いずれの地方 (paese) においても、知識人階層は資本主義の発展により、根底的に改変された。知識人の旧いタイプはもっぱら農民と職人を基礎とする社会の組織要素であった。国家を組織するため、交易を組織するため、支配階級はある特殊なタイプの知識人を飼育してきた。工業はあらたなタイプの知識人を導入した。それは、技術面での組織者、つまり応用科学の専門家である。
経済力が資本主義的意味で発展して国民の活動の大部分を吸収するまでになっている社会では、この第二のタイプの知識人が知的な秩序と規律という、そのすべての特徴をもって優勢である。他方、農業が依然として顕著で直接的に圧倒的な役割をはたしている地域にあっては、旧いタイプの知識人が優勢のまま、大部分の国家職員 (personale statale) を提供している。地方でも村や町で農民と行政機関全般とのあいだの仲介者的機能をはたしている。南部イタリアでは、以下のような特徴をすべてまとったこのタイプの知識人が席捲している。すなわち、農民への顔は民主的、大地主と政府の方を向いた顔は反動、策略家で腐敗し、不誠実である。こうした社会層の特色を考慮にいれなくては、南部諸政党の伝統的な容貌を理解できないであろう。
2. 南部知識人は主として南部でいまなお注目に値する階層の出身である。農村ブルジョワジー、すなわち中小土地所有者である。かれらは農民ではなく、土地を耕さず、農業に従事することを恥と考えるが、貸したり、たんに分益小作にだしたりしているわずかな土地から、便利な暮らしをし、息子たちを大学や神学校にやり、士官や国家公務員に嫁がねばならない娘たちへの持参金をつくるだけのものを得ようと欲する。この階層から、知識人たちは耕作農民に対するはげしい嫌悪を受容する。
耕作農民は、骨の髄まで搾りとられねばならず、余剰勤労人口により容易に取りかえのきく労働機械とみなされている。知識人たちは、農民とその破壊的暴力にたいする錯乱的な恐怖という代々の本能的感情をもまた得ている。よって、あか抜けした偽善の習癖と、農民大衆を欺して飼いならすための洗練このうえない技巧 (arte) を得ている。
3.聖職者は知識人の社会集団に属しているため、南部の聖職者全般と北部聖職者との特徴的な相異点に注目する必要がある。北部の司祭は共通して職人もしくは農民の息子であって、庶民的感覚 (s e n t i m e n t idemocratici) をもち、南部の聖職者よりも農民大衆につよく結びついている。女性としばしば公然と同棲している南部の司祭よりも道徳的にまっとうである。したがい、社会的にはより完全な霊的責務をはたしている。すなわち家庭にかんする活動すべての導き手である。北部では、国家と教会の分離ならびに[国家による]教会財産の収用は、南部よりもより徹底していた。南部では教区教会や修道院が相当の動産と不動産を保持もしくは再建したのだった。南部の司祭はつぎのような姿で農民のまえにあらわれる。 (1) 農民が地代をめぐって衝突する当の土地管理人として。 (2) 極度に高い利率を要求し、宗教の力を悪用して地代や暴利を確実に徴収する高利貸しとして。 (3) 俗っぽい欲心 (女とカネ) に支配され、それゆえ霊的に思慮分別と公正の点で信用ならない人物として。よって、告解はほとんど導きの聖務をはたしておらず、南部農民は、異教的意味でしばしば迷信家ではあっても、聖職権を支持しない。こうしたことすべてから、南部において (シチリアの一部地域を除き) 人民党 (Partito Popolare) がなぜ重要な地位を獲得できず、大衆の団体・組織網をひとつももちえないか*46、説明がつく。聖職者 (clero) にたいする農民の態度はつぎの俚諺に要約される。「司祭は祭壇では司祭だが、祭壇を降りればただの人」。
南部農民は知識人を媒介にして大土地所有者に結わえられている。農民の運動は、たとえ形式的ではあっても、自治的・自立的な大衆組織 (つまり、農民出の農民幹部quadri contadiniを選び、運動のなかで実現される分化と進展とを記録・蓄積できる組織) にまとめられないかぎり、地域諸党派の離合集散をつうじて、つねに国家装置の日常的な調整的接合物 (articolazioni) ―市コ ムーネ町村・県・下院―に整理される。地域諸党派の人材は知識人から構成されるが、大土地所有者およびかれらの腹心であるサランドラ、オルランド、ディチェザロ*47のような者たちによって統制されている。戦争は退役軍人 (excombattenti) の運動によって、従来のタイプの組織に新しい要素をもちこんだようにみえた。この退役軍人の運動のなかで、農民出の兵卒 (contadini-soldati) と知識人出の将校 (intellettuali-ufficiali) が相互に、また大土地所有者とあるていど敵対した、より統一のとれたブロックを形成していた。これは長くはつづかなかったし、この最後の残滓がアメンドラ*48によって構想された国民同盟 (Unione Nazionale) *49である。国民同盟はその反ファシズムのおかげでやっと存在しているにすぎない。
しかしながら、南部には民主主義的知識人のはっきりと4した組織的伝統がまったくないため、このような集合体ですら強調され、大事にされねばならない。なぜなら、ごく細い一筋の水も、政治全般の諸条件の変化で膨張し混濁の奔流となりうるからである。退役軍人の運動がより明確な輪郭をおびてより堅固な社会構造の創出に成功した唯一の地域、それはサルデーニャである。そしてそれが理解されるのは、まさしく、サルデーニャにあっては大土地所有者階級がきわめて弱く、なんの機能もはたさず、また半島南部にみるきわめて旧来の知的・文化的*50・統治的な伝統をもっていないという理由からである。大地主という最上位の社会階層のなかに、農民と放牧民の大衆による下からの衝撃を押しつぶす対抗力を見いだせない。
指導的な知識人たちはこの衝撃を全身にうけ、国民同盟よりもさらにめざましい前進をとげる。シチリアの情況はサルデーニャとも本土南部ともかなり奥ぶかく異なった性格をもつ。シチリアの大地主には本土南部よりもずっとつよい凝集力と決断力があるし、さらにある程度の工業と最高度に発達した商業が存在する (シチリアは南部全体でもっとも豊かな地域であり、イタリアでもっとも豊かな地域のひとつである) 。上層諸階級は国民生活における自分たちの重要性をかなりつよく意識し、その重要性に権威をもたせている。シチリアとピエモンテはイタリア国家に最大多数の政治的指導者をさしだした二つの地域であり、[ローマを回収し、この地を首都にすえて最終的な統一国家の成立をみた]1870年以降、卓越した機能をはたしてきた二つの地域である。シチリアの人民大衆は南部の人民大衆よりも先進的であるが、かれらの進歩は典型的にシチリア的な形態をおびた。つまり、シチリアの大衆社会主義が存在し、それはまったく独特の伝統と発達をみせている。このシチリアの社会主義は1922年の議会で、同島選出の下院議員52名中、およそ20名をかぞえた。
われわれが語ったのは、南部の農民が知識人を媒介にして大土地所有者と結びつけられているということである。このタイプの組織は半島南部とシチリア全域でもっとも浸透している。それは、全体として、北部の資本主義と大銀行が仲介人・監視人として機能する奇怪な農業ブロックを実現している。農業ブロックの唯一の目的は現状 (statu quo) を維持することである。その内部には、いかなる知的光明も、いかなる計画も、改善と進歩へのいかなる動因 (spinta) も存在しない。なにがしかの理念や計画が主張されたにしても、それらは南部のそと、国会において南部農業ブロックの保守派と連携していた、とりわけトスカーナの農業-保守政治集団にその起源をもっていた。ソンニーノとフランケッティは、南部問題を国民的問題とさだめ、その解決のために政府プランを構想する数少ない知的なブルジョワジーであった。ソンニーノとフランケッティの観点はどのようなものであったか? 南部イタリアは、当時いわれていたように「公論・世論」 (opinione pubblica) として機能する経済的に自立した中間層、一方では地主たちの残酷な専横を抑制し、他方では貧しい農民たちの蜂起主義を緩和するような中間層の創出を必要としていた。ソンニーノとフランケッティは、第1インタナショナルのバクーニン主義思想が南部でかちえていた人気をなにより恐れていた。
この恐怖でかれらはしばしば奇怪な錯誤をおかした。たとえば、かれらのある出版物のなかで、インタナショナル思想がいかに浸透し根づいているかを証明するのに、 (うろ覚えでとりあげるが) カラーブリア地方のある村の大衆酒場あるいは大衆食堂は「ストライキ実行者」 (scioperanti) という看板をだしていたという事実をもちだすのである*51。この事実は、もしそれが真実であれば (著者たちの知的誠実さからして、真実にちがいないだろうが) 、南部にはアルバニア人入植地が多数あり、《Skipetari》[アルバニア語でアルバニア人は“shqiptar”]という語が地元の言葉のなかできわめて奇妙で不思議な変形をへてきたことを想起すれば、より簡単に説明がつく (おなじように、ヴェネーツィア共和国の一部の文書には《S'ciopetà》という軍事隊形の話がでてくる) *52。
さて、南部ではバクーニンの理論が広くいきわたっていたというよりも、おそらく情況そのものがバクーニンに理論を示唆するほど緊迫していたのである。たしかに南部の困窮農民たちは、バクーニンの頭脳が「総破壊」 (pandistruzione) 理論を考えだすよりもはるか以前に「崩壊」 (sfascio) について考えていた*53。
ソンニーノとフランケッティの行政プラン (pianogovernativo) は実行の端緒すらつかめなかった。つかめるはずもなかったのだ。国民経済組織・国家組織における南北関係の紐帯がひどいために、経済的意味での広範な中産階級の誕生 (それはのちの広範な資本主義ブルジョワジーの誕生を意味する) はほぼ不可能となった。
地元へのあらゆる資本蓄積と貯蓄累積は、収税と関税のシステムにより、また企業主としての資本家は地元出身でないゆえ現地では利潤を新たな資本に転化しないという事実により、不可能となった。移民が20世紀に巨大な輪郭を呈し、移民からの最初の送金がアメリカから流れこんでくると、自由主義経済学者は勝ち誇ったように叫んだ。「ソンニーノの夢が実現する。静かな革命が南部で起こっている。それはゆっくりと、だが着実にこの地域の社会・経済の構造全体を変えるだろう」と。しかし、国家が介入し、静かな革命はその誕生とともに息の根を止められた。政府はなにがしかの利子をつけて国債 (buoni del tesoro) を差しだした。移民とその家族は、静かな革命の行為主体 (agenti) から、北部の寄生的な諸工業を助成するための財政手段を国家に供与する行為主体に変わったのだった。民主主義陣営にいて、また公式上は南部農業ブロックの外にあって、ソンニーノの計画を効果的に実現する者とみられたフランチェスコ=ニッティは、ところが、南部の貯蓄資産の最後までかき集めようという北部資本主義にとって最良の代理人 (agente) だった。割引銀行が呑みこんだ数十億リラはほとんどすべて南部のものだった。イタリア割引銀行 (BIS=Banca Italiana di Sconto) の40万債権者は大多数が南部の預金者であった*54。
南部には、農業ブロックのうえに知識人ブロックが機能しており、農業ブロックの亀裂が過度の危険におちいって地崩れをひきおこさないように、これまで実際に役立ってきた。この知識人ブロックの代表者とはジュスティーノ=フォルトゥナートとベネデット=クローチェであり、したがって二人はイタリア半島のもっとも活動的 (operosi) な反動と判断してよい。
南部イタリアは大規模な社会的解体であるとすでに述べた。この定式は農民のみならず知識人にたいしてもあてはめることができる。南部では大土地所有者 (grandissimaproprietà) のかたわらに個々の大知識人ないし限定的な大知識人集団による文化・知性の一大堆積が過去も現在も存在する一方、中間階級の文化*55の組織がないという事実に注目すべきである。南部には出版社のラテルツァ社 (Laterza) や雑誌『批ラ=クリティカ評』 (La Critica) があり、大アカデミー学等高等教育機関 (Accademie) や尋常ならざる博学の文化事業体があるが、中小の雑誌はなく、南部知識人の中間層 (formazioni medie) が集まる出版社は存在しない。農業ブロックを脱して南部問題を急進的なかたちで定立しようとつとめてきた南部の人びとは、南部以外で刊行されている諸誌に歓待をうけ、そのまわりに集まった。イタリアの北部・中部において20世紀に起こった中間階級の知識人に由来する文化的イニシアティヴは、南部の知識人につよく影響されていたゆえに、いずれも南部主義の特徴をみせていたといえる。[サルヴェーミニの]『ウニタ』や[プレッツォリーニの]『ヴォーチェ』などのフィレンツェ知識人グループのすべての雑誌、チェゼーナの『行アツィオーネ動』のようなキリスト教民主派の諸誌、ボローニャの『祖国』 (la Patria) やミラーノの『行アツィオーネ動』 (l'Azione) のようなG・ボレッリ*56によるエミーリアとミラーノの自由主義青年たちの紙誌、そして最後にゴベッティの『自由主義革命』*57。そして、すべてのこうしたイニシアティヴのなかで最高の政治的・知的な媒介者 (moderatori) がジュスティーノ=フォルトゥナートとベネデット=クローチェだった。農業ブロックの非常に息のつまる領域 (cerchia) よりも広い領域にある二人は、南部問題の定立がある限界を超えず、革命的にならないようにうまく対処した。巨大な教養と知性をもち、南部の伝統的な土地に生まれたが、ヨーロッパ文化ひいては世界文化とむすばれている人間であるかれらは、南部の教養ある青年のなかでもっとも誠実な代表者の知的欲求を満足させるための、現状への反乱という青年等の不安な衝動を慰撫するための、さらには、思想と行動の古典的平穏という中央路線 (lineamedia) にしたがってその知的欲求を導くための、あらゆる素質をそなえていた。イタリアでは文明の近代的諸条件の[欠如の]ために大衆の宗教改革はありえず、歴史的に可能な唯一の宗教改革はベネデット=クローチェの哲学とともに生じたということを、いわゆるネオプロテスタントあるいはカルヴィニストは理解しなかった。
思想の指針と方法は変更され、新たな世界観が構築されて、カトリシズムその他のあらゆる神話的宗教を凌駕した。この意味でベネデット=クローチェは崇高な「国民的」役割をはたした。クローチェは、南部の急進的知識人たちを[地域的ではなく]国民的かつヨーロッパ的な文化に参加させることによってかれらを農民大衆から切り離し、その文化をとおしてかれら知識人を国民的なブルジョワジー、つづいて農民ブロックに吸収させた。
『オルディネ=ヌオーヴォ』とトリーノの共産主義者は、ある意味でわれわれが示唆してきた知的形成と関連づけることができるにせよ、そしてそれゆえに、かれらもおなじくジュスティーノ=フォルトゥナートとベネデット=クローチェの知的影響をこうむってきたにせよ、だがそれと同時に、かれらはそうした伝統との完全な解消と、これまですでに数々の成果をうみさらに今後もうむであろうあらたな展開の開始を表明している。かれらは、すでに述べたように、都市プロレタリアートをイタリア史ひいては南部問題の近代での主役とさだめた。プロレタリアートと特定の左翼知識人層とのあいだの仲介者の役をつとめることで、完全ではないにしても、かれらは自分たちの精神的な針路をたしかにかなり変更できた。よく考えれば、これはピエロ=ゴベッティという人物のもつ第一の要素である。ゴベッティは共産主義者ではなかったし、おそらく共産主義者になったことは一度もないであろう。だが、かれはプロレタリアートの社会的・歴史的な形勢を理解し、もはやこの要素を閑却して考えることができなかった。新聞[『オルディネ=ヌオーヴォ』紙] の共同作業のなかで*58、われわれはゴベッティを、かれがそれまで書物の決まり文句 (formule) をとおしてしか知ることのなかったナマの世界 (mondo vivente) に接触させた。かれのもっとも魅力的な特徴は、その知的誠実さであり、あらゆる虚飾や下劣な狭量とはまったく無縁なことである。ゆえに、プロレタリアートにたいする一連のおきまりの見方や考え方がすべて虚偽・不当であることを確信しないではいられなかった。プロレタリア世界とのこの接触はゴベッティに結局なにをもたらしたのか? そうした見方や考え方はわれわれが議論したり深めたりしたくない概念であり、その大部分はサンディカリズムやサンディカリズム知識人の考え方にふたたび結びつくような概念への起源や衝動であった。自由主義の諸原理は、この概念のなかでは、個人的現象の水準から大衆的現象の水準へ投影される。
諸個人の生活における優秀さや威信といった特質は、ほとんど集合的個人 (individualità collettiva) として認識される諸階級へ移入される。この概念は通常、概念を共有する知識人のなかでは、功罪のたんなる静観と記録、および争いの調停者や賞罰の授与者という不愉快で愚かな立場にいたる。実際には、ゴベッティはこの運命を免れた。かれはきわだった力量をもつ文化の組織者であることを示したし、ここ最近は労働者がなおざりにも軽視もしてはならない役割をもった。かれは塹壕を掘った。
より率直で真摯な知識人グループは1919年-1920年-1921年、指導階級としてのプロレタリアートはブルジョワジーよりもすぐれているであろうと感じ、その塹壕から退却しなかった。ゴベッティは偽装共産主義者 (comunistacamufatto) にほかならず、共産党の回し者でないなら、すくなくとも『オルディネ=ヌオーヴォ』共産主義グループの回し者だと、ある者は善意から誠実に、またある者はきわめて悪意から不誠実に、くりかえしふれまわっていた。このようなくだらない陰口は反証するにもおよばない。ゴベッティという人物とかれに代表される運動は、イタリアのあたらしい歴史的風土の自然発生的な所産であった。つまり、そうしたことのなかに、ゴベッティとかれの運動の意義と重要性がある。だが、『自由主義革命』誌の思想傾向と闘わなかったと、われわれは党の同志から数度にわたって叱責された*59。というより、闘わなかったことが、われわれとゴベッティとのあいだの (いわゆる) マキャヴェッリ的な性格をもつ有機的連結 (collegamento organico) のある証拠とおもわれた。われわれはゴベッティと闘うことはできなかった。なぜなら、すくなくとも原則の点からは、ゴベッティは[われわれが]闘うべきでない運動を展開し、表象していたからである。このことを理解しないということは、知識人の問題および階級闘争において知識人がはたす機能を理解しないことを意味する。ゴベッティは実際、以下のごとく、われわれの連結役をつとめた。すなわち、 (1) 資本主義的技術分野に生まれ、1919年-1920年にはプロレタリアート独裁に賛成する左翼の立場をとった知識人たちとの連結役。 (2) より複雑な連結によって伝統的な地形とは異なる地形に南部問題を定立し、そこに北部プロレタリアートを導入した一連の南部知識人との連結役。こうした知識人のひとりであるグイード=ドルソはもっとも完全で興味ぶかい人物である*60。なぜ、われわれが『自由主義革命』誌の運動に反対して闘えばよかったのだというのか? それはおそらく、その運動がわれわれの綱領と理論を一から十まで受けいれる純粋な共産主義者によって構成されていなかったからか? 闘うことが要求されるはずもなかったのは、そんなことをすれば政治的にも歴史的にもひとつの逆パラドックス説となったからであろう。知識人たちは、まさにかれらの本質と歴史的機能のために、ゆっくりと、他のいかなる社会集団よりもさらにゆっくりと成長する。かれらは民衆 (popolo) の文化的伝統全体を代表し、歴史の全体を要約し、民衆の歴史全体を総合しようと欲する。これはいわゆる古いタイプの知識人、農村部 (terreno contadino) にうまれた知識人についてとくにいえるだろう。
この古いタイプの知識人が、あたらしいイデオロギーの領域にすっかり身をおくため、集団として、過去のすべてとの関係を断つのは可能であると考えることはおそらくばかげている。それは集団としての知識人にとってばかげており、また、大多数の知識人がおこない、おこないたいと欲している誠実な努力にもかかわらず、おそらく、個人としてのかれらにとってもまたばかげたことである。いま、われわれが興味をもっているのは、個人としての知識人だけでなく、集団としての知識人である。
プロレタリアートにとってあきらかに重要で有益なのは、一人あるいは複数の知識人が個々にプロレタリアートの綱領や原理をつよく支持し、プロレタリアートのなかに溶けこんでプロレタリアート全体を構成する一部となり、またそう感じることである。階級としてのプロレタリアートは組織的要素に乏しく、固有の知識人層をもっていない。非常にゆっくり、苦心惨憺しつつ、それも国家権力の獲得をまってようやく、それを形成できるにすぎない。だが、おなじく重要で有益な点は、歴史的に特徴づけられた有機的性格の断絶が知識人集団のなかでひきおこされることである。それはつまり、言葉の現代的意味における左翼的傾向、すなわち革命的プロレタリアートを志向する傾向が集団のかたちとして形成されることである。プロレタリアートと農民大衆との同盟はこの形態を必要とする。プロレタリアートと南部の農民大衆との同盟ならば、なおのこといっそうこれを必要とする。
プロレタリアートが南部の農業ブロックを破壊できるかどうかは、かれらが自己の党をつうじ、ますます増大する貧農大衆を自律し独立した形態にどれくらいうまく組織できるかどうかにかかっている。だが、こうしたとりくまなければならない課題での成功の多少は、また、知識人ブロックを解体する可能性にもかかっている。この知識人ブロックは、農業ブロックの有する柔軟だがきわめて強力な抵抗力をもつ武具 (armatura) でもある。この課題の解決にむかって、プロレタリアートはピエロ=ゴベッティに助けられていた。故人の友人たちは、ゴベッティの案内がなくとも、かれの着手した巨大で困難な仕事を継続するだろうとわれわれは考える。しかし、この仕事はまさに巨大で困難ゆえ、プロレタリアートと農民という二つの社会勢力のみが本質的に国ナ ショナル民的であり未来の担い手であると理解した北部と南部の知識人たち (かれらは考えられている以上に多数だ) があらゆる犠牲 (ゴベッティの場合のように生命までも) をはらうに値するのである*61。
*1 ここに訳出するのは、グラムシが南部問題について1926年に書いた文章の、ビッショーネ (FrancescoM. Biscione) による校訂版である。本訳稿ではこの表題を正式なオリジナルタイトルとして採用する。ビッショーネによれば、表題はグラムシの自筆原稿28枚の第1ページ冒頭に見ることができる。手書き原稿には表題に取消波線がひかれ、その上方に、グラムシのものとはみとめられない筆跡で「南部問題にかんするいくつかの主テ ーマ題」 (Alcuni temi della quistione meridionale) と、これまで一般によく知られたタイトルが書かれてある (なお、訳者は『労スタート=オペライオ働者国家』誌のリプリント版の差し込み写真でこれを確認した。Lo Statooperaio: rassegna di politica proletaria, Reprint ed., a.1, n. 1, mar. 1927-, Milano, Feltrinelli Reprint, 1966) 。
周知のように、1930年1月に『労スタート=オペライオ働者国家』誌上に掲載されて以降、現在に至るまで、このタイトルが一般的に流通してきた。手稿には若干の消し跡や訂正があるが、原稿は完全に読みとることができる。Antonio Gramsci, Note sul problema meridionalee sull'atteggiamento nei suoi confrontidei comunisti, dei socialisti e dei democratici, l'edizionecritica, a cura di Francesco Biscione, in:《Critica marxi s t a》n. 3, a. 28, 1990, pp. 51-78. 以下、このビッショーネ校訂版による注記を、たとえば[ B注5]などとオリジナルの注番号を付して表記する (ただし、適宜、若干の補足をほどこしている場合もある) 。
この論文がはじめて活字となって掲載された『労スタート=オペライオ働者国家』誌には、掲載頁の冒頭につぎの但し書きが添えられている。「1926年、逮捕直前の数箇月間、同志グラムシはわが党の理論誌の刊行を準備していた。グラムシは、その最初の数号で、当時すでに用意していた一連の記事において南部問題を検討するはずだった。党中央の一部の同志にはそれを読ませていた。本日、そのうちの一本を、多々の紆余曲折をへてわれわれの手に入ったそのままに発表する。文章は未完成で、おそらく筆者によってなおあちこち手直しされるはずであったろう。共産主義政治思想の比類なきほどに深遠かつ力づよく、独創的でもっとも広範な展開にとむ最高の歴ド キュメント史的記録として、われわれは一切の修正をほどこすことなくこの文章を再現する」。
Antonio Gramsci, Alcuni temi della quistionemeridionale,《Stato operaio》, a. 4, n. 1, gennaio1930, pp. 9-26 (Feltrinelli reprint, 1966) . この但し書きは、エイナウディ版のグラムシ集にも、「この論文[南部問題論] はPCI (イタリア共産党) の資ア ルキーヴィオ料保管室所蔵の手稿にもとづいてここに発表するが、1930年1月、パリで『労スタート=オペライオ働者国家』誌にはじめて発表された」と前置きされ、最後の一文を除いて引用されているほか、「言及されているその他の論攷はまだ発見されていない」という注記がある。Antonio Gramsci, La costruzionedel partito comunista 1923-1926, a cura di ElsaFubini, Torino, Einaudi, 1971, p. 13 7, n. 1. 『労スタート=オペライオ働者国家』誌は、トリアッティを中心とする当時亡命中の共産主義者によって1927年3月から1939年夏まではパリで、1940年から1943年まではニューヨークで刊行された反ファシズム月刊誌である。cf. Antonio Gramsci, 2000 pagine diGramsci, I, Nel tempo della lotta (1914-1926),a cura di Giansiro Ferrata e Niccolò Gallo, IlSaggiatore, 1964, p. 147, n. 3) 。表紙のタイトル右上に「万国のプロレタリア諸君、団結せよ!」 (Proletari di tutti i paesi, unitevi!) と刻まれ、タイトル直下には「プロレタリア政論誌」 (Rassegnadi politica proletaria) とのサブタイトルを付された『労スタート=オペライオ働者国家』誌の16年間に掲載されたグラムシの論説はわずか8本であり、しかもそれは最初の5年間 (1927-1931 ) にかぎられている。1926年11 月にファシスト政府によって拘引されてから没するまで獄中の身にあり、直接タイムリーに同誌とかかわることができなかったため、収録された8本の論説も、1926年11 月以前に執筆された未公表稿を落ち穂拾い的に掲載したものか、他紙掲載論説の再録であった。 (1929年年頭から執筆をはじめた『獄中ノート』の存在を知る者はごく少数の関係者だけであり、また当然、獄外にもちだすことなど不可能であった) 。以下、その論題 (巻・号数) のみ列挙する。①「G・M・セッラーティ同志とイタリア社会主義の同時代人たち」 (Ilcompagno G. M. Serrati e le generazioni delsocialismo italiano, I-3) 、②「トリーノ共産主義運動」 (Il movimento comunista torinese, I-6) 、③「1926年におけるイタリア的状況の検討」 (Unesame della situazione italiana nel 1926, II-3) 、④「われわれと共和主義的結集」 (N o i e l aConcentrazione repubblicana, II-10) 、⑤「首領」 (《Capo》, III-1) 、⑥「南部問題にかんするいくつかの主題」 (A l c u n i t e m i d e l l a q u i s t i o n emeridionale, IV-1) 、⑦「オルディネ=ヌオーヴォの綱領」 (Programma dell'Ordine Nuovo,IV-4) 、⑧「大衆によるイデオロギー的準備の必要性」 (Necessità di una preparazione ideologicadi massa, V-3) 。
*2 14世紀、中世ドイツの伝説のトリックスターで、日本でも『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 (岩波文庫など) の主人公“ T i l lEulenspiegel”として有名だが、この綴りは現代ドイツ語であり、当時の初期新高ドイツ語の民衆本 (Volksbuch) にしたがえば、“Dil Ulenspiegel”である。『労スタート=オペライオ働者国家』の記事の署名も“Ulenspiegel”と綴られているので、ここでは「ウーレンシュピーゲル」と表記する。大島浩英「初期新高ドイツ語民衆本“Dil Ulenspiegel (1515) ”の語法について」『大手前大学社会文化学部論集』n . 1 、2001年、pp. 55-68を参照。
*3 [ B注2]“Il problema meridionale”,《Il Quartostato》, n. 24, 18 settembre 1926, p. 1.「政治文化の社会主義週刊紙」 (Rivista socialista di culturapolitica) とのサブタイトルを付された『クワルト=スタート』は1926年3月27日号から同年10月23日号まで、C・ロッセッリ (Carlo Rosselli) とネンニ (Pietro Nenni) によってミラーノで刊行された。ウーレンシュピーゲル (トンマーゾ=フィオーレTommazo Fioreの筆名) の署名記事は、共産党の政策およびグイード=ドルソの『南部革命。イタリア政治闘争に関する歴史-政治論』 (Guido Dorso, La rivoluzione meridionale.Saggio storico-politico sulla lotta politica inItalia, Torino, ed. Gobetti, 1925; riediz. Torino,Einaudi, 1945) についてもまた同意基調で論評していたが、この記事のまえには、わノイれら (Noi) という署名 (おそらくロッセッリである。cf. IlQuarto stato di Nenni e Rosselli, a cura diDomenico Zucàro, Milano, Sugarco, 1977, pp.33 -39) の編集者による注記があり、グラムシはこれに反論する。編集者の論評は、「サルヴェーミニやフォルトゥナート、アツィモンティ[後述]、ラブリオーラなど」の教訓に触れ、原則として南部主義を社会主義的伝統に奪回することを主張していた。誌面のコラムを南部問題に開放する一方、評者[ロッセッリ]はドルソの立場からは距離をおいてつぎのように書いた。「われわれはドルソと全面的に一致するわけではない。社会主義運動のきわめてしばしば否定的で経験主義的な行為にかんするドルソの厳しい判断は共有するが、かれが戦闘的なバベルの塔および共産党に認めた功績にはかならずしも納得するものではない。 (…) ドルソ書は明白な独自性とイタリアの政治-社会生活のかなり一方的で骨組みだけの展望を接合している。南部問題をイタリアの主要問題のひとつとみなすことと、今日ではとりわけイタリアの問題すべてが南部での生活の倫理的・文化的・政治的・経済的な基盤の本質的な変革のなかにただ専一的に由来すると判断することとは、おおきく違っている」。
*4 『オルディネ=ヌオーヴォ』は「社会主義文化紙」のサブタイトルで1919年5月1日付の創刊第1号から1920年12月24日号まで週刊紙として発行した。1921年1月1日号から日刊紙に、さらに同年1月21日の社会党リヴォルノ大会で党から分離してイタリア共産党 (Partito Comunista d'Italia) が誕生すると、トリーノにおける同党の機関紙 (日刊) となった。1922年に発行を中断し、ファシズム体制下の1924年3月に再刊したものの、1925年3月までの1年間に断続的に8号を数えたにすぎなかった。
*5 “Operai e contadini”, non firmato, in:《L'OrdineNuovo》, 1920, n. 32 (3 gennaio) , rubrica “La settimana politica”, ora in: Antonio Gramsci, L'Ordine Nuovo 1919- 1920, a cura di ValentinoGerratana e Antonio A. Santucci, Einaudi, 1987,pp. 376- 378. (以下、ONと略記)
*6 [ B注4]分析や解決提示における具体性へのアピールは、サルヴェーミニ (Gaetano Salvemini、1873-1957) 主宰の日刊紙『ウニタ』 (l'Unità) が主要な旗振り役であった。「具体主義」とは、個別的・部分的な局面へと進行することで問題の深部にある歴史的・政治的な重要性を隠蔽するような手法 (approccio) 方をいう。
なお、石堂清倫編『グラムシ政治論文選集』3 (五月社、1979年、220頁) には、「個別主義」と訳されたconcretismoについて、次の訳注がある。
「南部問題をさまざまな問題に分けて、これらを全体的に解決するための政治方針なしに、可能な問題から一つづママつ解決してゆこうとする南部問題専門家に特徴的な傾向ないし態度。サルヴェ[ー]ミニの場合この傾向はもっとも顕著であったといわれる」。
* 7 フォルトゥナート (Giustino Fortunato 、1848-1932) は自由主義保守派の政治家 (上下両院議員を経験) ・作家。南部問題の根本から研究し、1911 年に『南部と統一国家』 (Il Mezzogiornoe lo Stato unitario) を出版し、住民によって破壊された肥沃で豊かな南部という神話を反証し、南部は地質・気候の自然環境的に貧困であり、また南部における統治階級と南部企業家階級の欠如を強調した。南部問題に関するフォルトゥナートの日本語訳文も参照。勝田由美「〔翻訳〕ジュスティーノ・フォルトゥナート『南部問題と税制改革』 (1904) より」『工学院大学共通課程研究論叢』43 (1) 、2005年、所収。
*8 サルヴェーミニの南部論については本誌既刊の拙訳・解説を参考。「ガエターノ=サルヴェーミニ『連邦制』『ジョリッティ体制』」 (17号、2007年) 所収。
*9 アツィモンティ (Eugenio Azimonti、1878-1960) は南部農業および南部経済を論じたミラーノ出身の経済学者。サルヴェーミニの『ウニタ』やP・ゴベッティの『自由主義革命』 (Rivoluzioneliberale) に寄稿した。1919年には、長期低金利融資による南部の農業・経済の改革を提唱し、ラティフォンドや保護関税の否定と国際商業圏への開放、公正な税制などを唱える『農業の南部とは何か』 (Il Mezzogiorno agrario qual'è) を著した。
*10 ラブリオーラ (Arturo Labriola、1873-1959) は政治家・経済学者。社会党の改良主義に反対した革命的サンディカリストの中心的理論家。1911 年のリビア戦争を支持し、第1次大戦ではイタリアの参戦を主張した。1920年から1921年の第5次ジョリッティ (Giovanni Giolitti、1842-1928) 内閣時には労働相をつとめた。ファシズム体制下の1927年以降、フランスおよびベルギーに亡命したが、1935年にエチオピア戦争への支持を表明したことで帰国を許される。戦後も上院議員として政治活動をつづけた。主著に『マルクスの価値理論』 (La teoria del valore di K. Marx, 1899) 、『資本主義』 (Il capitalismo, 1910) 、『トリポリ戦争[リビア戦争]と社会主義的見解』 (La guerra diTripoli e l'opinione socialista, 1912 ) 『資本主義と社会主義を超えて』 (Al di là del capitalismo edel socialismo, 1931 ) など。
*11 [ B注6] 実証主義学派 (scuola positiva) は、学際的方法で社会学・人類学・統計学・医学・犯罪学へとその関与領域をひろげたが、第2インタナショナル派の社会主義者にひろく受けいれられた。多くの実証主義学派シンパが革命的サンディカリズムや改良主義的傾向の労働運動領域に引きよせられた。P・トリアッティはとりわけサルデーニャにかんするこうした実証主義議論への若きグラムシの憤慨を証言している (c f . P a l m i r oTogliatti, Gramsci, a cura di Ernesto Ragionieri,Roma, Editori Riuniti, 1972, pp. 49, 75-79) 。ここでグラムシが想起している著作家はおそらく、セルジ (Giuseppe Sergi、1841-1936、人類学者) やオラーノ (Paolo Orano、1875-1945、ジャーナリスト。1903年から1906年まで社会党機関紙『アヴァンティ!』 (Avanti!) 編集者、その後、革命的サンディカリスト、第1次大戦時の参戦主義者をへてファシストとなる) 、ニチェーフォロ (AlfredoNiceforo、1876-1960、法律家・犯罪学者) である。
Giuseppe Sergi, Di alcune varietà umane dellaSardegna, Roma, Artero, 1892; Paolo Orano,Psicologia della Sardegna, Roma, Casa EditriceItaliana, 1896; Alfredo Niceforo, La delinquenzain Sardegna, con prefazione di Enrico Ferri,Palermo, Sandron, 1897) 。なお、フェッリ (EnricoFerri、1856-1929) は犯罪学者・社会主義者。犯罪人類学の創始者ロンブローゾ (C e s a r eLombroso, 1836-1909) の弟子。ロンブローゾは犯罪を心理的・精神的要因に、フェッリは社会的・経済的要因にもとめた。犯罪社会学に関する著作があり、『アヴァンティ!』の編集者も経験している。
科学的厳密性によるアプローチを研究上・思考上の至上命題とする実証主義をめぐる思想界の動静にかんしては、もはや古典的名著の一冊となったH・S・ヒューズ『意識と社会』 (生松・荒川訳、みすず書房、1970年) の諸章を参照。
*12 ガイ (Pilade Gay、1870-1914) はトリーノの社会主義者。イタリア社会党トリーノ支部機関紙 (週刊) 『人民の叫び』 (Grido del popolo) 創設者のひとり。労働組合運動・協同組合運動にたずさわる。1913 年に下院議員に当選した。なお、この補欠選挙に社会党からは家具職人のボネット (Mario Bonetto) が立候補したが、ナショナリストのベヴィオーネ (Giuseppe Bevione) が当選している。ちなみに、グラムシは『人民の叫び』紙1914年10月14日号に初めての政治論説とされる (G・フィオーリ) 「積極的・効果的中立」を掲載し、社会党指導部の第1次大戦への待機主義的な絶対中立主義の受動性に疑義を呈した。 AntonioGramsci, Neutralità attiva ed operante,《Il Gridodel Popolo》n. 536, 31 ottobre 1914, in: Id.,Cronache torinesi 1913-1917, a cura di Sergio Caprioglio, Einaudi, 1980, pp. 10-15.
*13 三者ともに社会党改良派の指導グループに属していた。トゥラーティ (Filippo Turati、1877-1932) は社会党の前身であるイタリア勤労者党の創設者のひとりで、社会党の議会勢力のあいだにつよい影響力をおよぼしていた。トレヴェス (ClaudioTreves、1869-1933 ) はトゥラーティにもっとも近かったが、1922年に社会党右派とともに統一社会党 (Partito socialista unitario) を結成する。
ダラゴーナ (Ludovico D'Aragona、1876-1961) はイタリア社会党右派の基盤を構成する労働組合に君臨し、労働組合主義を批判するグラムシの主要敵ともなった。権威主義的内閣として知られるクリスピ時代にフランス・スイスと国外に逃れるが、その後は金属労働組合の書記長やミラーノその他の都市で労働会議所の議長を歴任した。のちに断続的にミラーノ市会議員、県会議員となり、第1次大戦後には労働組合の全ナ ショナルセンター国中央組織CGdL (Confederazione generale del lavoro) 書記長に就任して最大労組を掌握すると同時に、1919年から1924年にかけては社会党の代議士にもなった。
ファシズム期にはパリに亡命している。
*14 パストーレ (Ottavio Pastore、1887-1965) はジャーナリスト・政治家。社会党員時代の第1次大戦中に党機関紙『アヴァンティ!』トリーノ版の編集長となる (編集者にはグラムシやトリアッティがいた) 。イタリア共産党 (1921年) 創設者のひとりで、党機関紙『ウニタ』の初代編集長。
ファシズム期の1926年に逮捕、投獄された (半年後に釈放) 。ファシストの暴力を避けるため国内を転々とし、結局、フランスに亡命、彼地で反ファシズム活動を展開する。さらに、モスクワのコミンテルンでも活動し、スペイン内戦時にはトリアッティの命をうけ、国際旅団、ガリバルディ大隊の編成作業にあたった。第2次大戦後、共和国上院議員を第1期より連続3期つとめた。
*15 モルフェッタ (molfetta) ・ビトント (Bitonto) はともに現在のプッリア州バーリ県の都コムーネ市。
*16 『トレッカーニ=イタリア語辞典』には、棍棒 (mazziere) をもった男 (mazziere: pl. mazzieri) を、「ジョリッティ時代 (20世紀初頭の15年間) 、とりわけ南部イタリアにおいて、政府ののぞむ方向での宣伝活動を請け負い、しばしば脅迫手段に訴える選挙ブローカーをさす、概して侮蔑的な呼称」と説明している。Istituto della Enciclopedia Italiana fondata da Giovanni Treccani,Vocabolario della lingua italiana, III, 1989, p.121.
*17 [B注11 ]ガエターノ=サルヴェーミニは、タスカ (Angelo Tasca、当時はグラムシとおなじく社会党トリーノ支部に所属) の要請にたいしておこなった証言にももとづいて、グラムシの語ったできごとに一部をくわえ、部分的には異を唱える。
すなわち、「1914年、トリーノの社会主義者のとあるグループが、北部労働者と南部農民との連帯を確たるものにするためトリーノ選挙区の下院立候補を受けいれてほしいと内密に要請してきたとき、わたしはこれまで社会党と一度も関係をもったことがないと伝えた。かれらの発アイデア案はむろん、当然のごとく潰えた」 (Gaetano Salvemini,Prefazione e Scritti sulla questione meridionale (1896-1955) , Torino, Einaudi, 1955, pp. XXIIXXVII,ora in: Id., Movimento socialista equestione meridionale, a cura di Gaetano Arfè,Milano, Feltrinelli, 1963, p. 677. ただし、引用頁は後書からのもの) 。タスカのつぎの書簡はそれに付加する証言である。すなわち、《あなたの立候補の件は、実際には、わたしと、当時は社会党トリーノ支部の書記だったオッターヴィオ=パストーレとの話し合いのなかから出てきたものです。
(立候補を断られたのち) この発アイデア案をすぐには捨て去ることができなかったので、いくらか模索しましたが、断念しなければならないと納得しました。それに労働者の立候補に好意的な流れが日を追うごとに大きくなり、またこれにたいしてムッソリーニの立候補という動きもありましたが、これは事前投票で少数派でした。このムッソリーニ立候補について、あなたはまったく無関係でした。
それよりもあなたは、労働者候補の応援のため、公然たる選挙運動として、トリーノで集会を開くことを承諾なさった》 (同、678頁~。cf. PaoloSpriano, Storia di Torino operaia e socialista. DaDe Amicis a Gramsci, Torino, Einaudi, 1972, pp.270-273. ここではパストーレの証言を伝えている) 。サルヴェーミニ― その当時、自らの急進性や威信を故意に軽視していた―は、立候補提案のグラムシによる解釈をとりわけ否定しようとした。《わたしは》、南部農民大衆の、またその他のいかなる大衆の、《“急進的な意味でもっとも先進的な代弁者”などであったことはまったくない。
わたしは改良主義的で、漸進主義的で、社会党 (socialisti ufficiali) に異論を唱える社会主義者を自称したい一義勇兵 (libero tiratore[仏語franc-tireurの借用か]) だったのであり、まったくもって“急進的な意味で先進的”ではないと思われていたのである。南部農民の将来にたいする無関心がわたしと他の改良主義者とを分別していたのではなく、北部にせよ南部にせよ、いわゆる“革命的”社会主義者との共通点がわたしにはただのひとつもなかったのである》 (同、679頁) 。事実、社会党トリーノ支部の立候補ではマリオ=ボネットがベニート=ムッソリーニに254票対151票で勝利した。しかし、結局、注12でもすこし触れたように、1914年6月28日の本選第2回投票でボネットは67票の小差でナショナリスト候補のベヴィオーネに敗れた。 (つぎの無署名記事のなかにグラムシによる当時の選挙運動の回想がある。
Antonio Gramsci, non firmato, Parole franche adun borghese, in《Avanti!》, ed. piemontese,5novembre 1920, in: ON, pp. 758-761) 。
*18 サルデーニャ行動党については、本誌前号 (21号、2009年3月) の拙訳・解説「グイード=ドルソ『南部革命』」、22-23頁を参照。
*19 ヌッラ (Pietro Nurra、1871-1951) はサルデーニャの詩・民衆文学研究者。1916年にジェノヴァ大学図書監督、同図書館長、リグーリア書誌文化財保護管を歴任した。ジェノヴァ大学でも教鞭をとった。サルデーニャの言語・詩文・文化にかんする多数の著作がある。
*20 [ B注13 ]このできごとは1920年2月中旬に起こり、グラムシはつぎのように書いている。「社会主義グループの精力的な参加は、集会に大混乱をもたらした。“サルデーニャ出身の青年たち”は議論がこのように危険な方へ向かうのを阻止しようと努めたが無駄だった。社会主義労働者がつぎつぎと演壇に駆けつけ、かれらの階級概念をくりかえし主張し、サルデーニャの悲惨とあらゆる資本主義によって搾取されたサルデーニャ農民・労働者の窮乏とを想起させた。それは、鉱山を搾取するイギリスの資本主義から、鉄道を搾取するピエモンテの資本主義や畜産を搾取するローマの資本主義や、毎年どんな形にせよ還元されない莫大な税金を盗みとるイタリア国家に至った。奪われた莫大な税金は半島本土の税負担の軽減に使われていたのだった」。Antonio Gramsci, La Sardegna ela classe operaia,《Avanti!》, edizione piemontese,17 febbraio 1920, in: ON, pp. 417-419.
*21 サッサリ旅団は、1920年9月に発生した労働者によるトリーノ工場占拠時、同地に派遣されるのだが、それより前、第1次大戦中の1917年8月に発生したトリーノ=プロレタリアートのパンよこせ暴動と反戦暴動への鎮圧に使われた。この最初の遭遇の記憶がまだなまなましく、また旅団側とトリーノ市民・プロレタリアートとのあいだで敵愾心がさらに助長されるであろうと予想されたが、サッサリ旅団は再び投入された。同旅団はサルデーニャ島北部の主要都市「サッサリ」の名がつけられていることからもわかるように、その団員の大半がサルデーニャ出身者から構成され、陸海各軍の一部を編成した編隊であった。当初は北部当局の指揮下におかれ、ピエモンテ人とサルデーニャ人 (周知のように、サルデーニャ人はイタリア統一以前よりピエモンテ人によって統治されていた) との一種の搾取的関係の維持を担わされた。
cf. Antonio Gramsci, The Southern Question, Toronto, Guernica, 2005, pp. 88-89, n. 16.
*22 [ B注14]サッサリ旅団のこのエピソードをめぐる、トリーノの社会主義者が旅団の歩兵たち (fanti) のあいだに展開した宣伝活動と、ロシア革命・ハンガリー革命に連帯する1919年7月のスト直前での突然の退去については、グラムシによる3本の無署名記事を参照。“I dolori dellaSardegna”, “La Sardegna e il socialismo. Aicompagni proletari sardi”, “I nostri fratellisardi”, nell'edizione piemontese dell'《Avanti!》,rispettivamente del 16 aprile, 13 e 16 luglio 1919,o r a i n : A n o n i o G r a m s c i , I l n o s r t o M a r x1918-1919, a cura di Sergio Caprioglio, Torino,Einaudi, 1984, pp. 598-600; ON, pp. 13 6-13 8,13 9-141. 上の2番目の記事 (「サルデーニャと社会主義。サルデーニャのプロレタリア同志へ」) には、社会主義者である二人の兵士から『アヴァンティ!』トリーノ支部編集部につぎのような文面で終わる一通の手紙が届いたことが伝えられている。「進め、サルデーニャのプロレタリア同志はロシア共和国を防衛し、トリーノの労働者たちはわがサルデーニャをもまた防衛する。諸君の母と姉妹は諸君にこう叫んだ。『兄弟の血で自分たちの手を汚さないで! あなたたちはカインではないのよ!』」。3番目の記事 (「サルデーニャのわれわれの兄弟へ」) では、旅団の移動を知らせ、数箇月前になされた社会主義の革なめし工とサルデーニャ兵士との会話をより簡潔に報じている。
(cf. Mario Montagnana, Antonio Gramsci e ifanti della《Sassari》, in:《La Ricossa》, 1946, n.45, p. 3)
*23 [ B注15]フィアットの協同組合化提案は、まだ工場占拠が実行されていた1920年9月18日に社主アニェッリ (Giovanni Agnelli) によって提出された。この提案は疑わしく、実現可能とはおもわれなかったが、諸々の工業家や政府関係者のあいだに論議を引きおこした。だが、なかでもCGdL (労働総同盟) の改良主義者たちに期待を生じさせたり、労働者による経営の承認によって契約を変更するといったことにより、労働者の抵抗を弱らせることになった。結局、この協同組合化提案は10月末、アニェッリによってひっこめられたが、工業 (とくに金属・機械) の協同組合方式への再編テーマが認められるところとなり、1921年前半には (首相ジョリッティによる同提案への積極的評価とともに) CGdLや協同組合連盟によって再提案された。
話はもどるが、他方、このアニェッリ提案の翌9月19日、ジョリッティ首相の肝煎りで、CGdLとCコ ンフィンドゥストリアo n f i n d u s t r i a (イタリア工業家総同盟、Confederazione generale italiana dell'industria) という労資の各最高組織幹部がローマに会合をもつ。その席で賃金問題と労働者による工場管理について合意が成立し、ジョリッティは数日後、政府に提出するための合意実施にかんする提案作成の任務をおびた、CGdLとCコンフィンドゥストリアonfindustriaの各6名からなる委員会を設置した。他方、9月22日のCGdL臨時大会は、賛成148740票、反対411 70票、棄権1059票で9・19労資合意を承認する。大会はくわえて、工場占拠闘争にかんする労働者投票をおこない、12904票対44531 票 (棄権3006票) で闘争の終了を決議した。
なお、工場占拠の詳しい経緯については、以下を参照。Paolo Spriano, L'occupazione dellefabbriche. Settembre 1920, Torino, Einaudi, 1964:P・スプリアーノ (桐生尚武訳) 『工場占拠』鹿砦社、1980年; 拙稿「工場占拠 (1920年9月) ―その評価と影響をめぐって」『日伊文化研究』35号、1997年;同「記憶の場―トリーノ・工場占拠 (1920年9月) 」『日伊文化研究』44号、2006年。
*24 [ B注16]ここで1920年代初頭におけるイタリアの政治的推移についてのグラムシによるよく知られた補説 (excursus) がはじまる。第1次大戦後の大衆運動にかんするジョリッティ危機へのグラムシの解説はつぎの論説も参照。“Un anno inOrdine Nuovo”, 《Ordine Nuovo》, 15 gennaio1922, ora in: Antonio Gramsci, Socialismo efascismo. L'Ordine Nuovo 1921-1922, Torino,Einaudi, 1966, pp. 441-444.
*25 グラムシは“sindacalismo” (労働組合主義) とのみ表記しているが、それは既成大労組CGdLのような労資協調路線でなく、より正確には、経済権力の獲得をめざす急進的労働組合主義である革命的サンディカリズム (sindacalismo rivoluzionario) と解してよい。
*26 [ B注17]革命的サンディカリズムのこの解釈については、1924年のある会話にかんするディ=ヴィットーリオ (Giuseppe Di Vittorio) のつぎの証言がある。「 (グラムシが) サンディカリズム運動とその起源、およびそれが当時まで有してきた機能とその変化の契機について鋭い分析をおこなったことを覚えている。グラムシからつぎのような見解を聞いたのはまったくはじめてのことだった。なぜサンディカリズム運動は、農業プロレタリアートの中心地、まさしくプッリアやエミーリア地方でより発展してきたのか? 日雇い農業労働者階級大衆 (masse del bracciantatoagricolo) は、生活と成長と進歩への切迫した諸々の必要から闘争に駆りたてられたが、なぜ、労働総同盟 (CGdL) の改良主義が抵抗組合 (Leghe) や労働組合に押しつけようとした官僚主義に当然にもさいなまれる傾向をみせたのか。FeliceChilanti, La vita di Giuseppe Di Vittorio, Roma,Laboro Editrice, 1952, p. 93.
*27 レオーネ (Enrico Leone、1875-1940) は1905年まで社会党機関誌『アヴァンティ!』の編集者で、のちに日刊紙『行動』 (L'Azione、のちに『サンディカリズム行動』L'Azione sindacalista) を創刊した。ロンゴバルディ (Ernesto CesareLongobardi、1877-1943) はアルトゥーロ=ラブリオーラに協力した。『プロパガンダ』誌 (LaPropaganda) の編集者でもあった。
*28 コッラディーニ (Enrico Corradini、1865-1931 ) はつよい影響力もったナショナリズムの理論家。
かれの説く「国民社会主義」 (s o c i a l i s m onazionale) は階級間闘争を国家間闘争へと転移させるという議論であった。コッラディーニは、自身が1903年に創刊した雑誌『王レーニョ国』 (Il Regno) をつうじ、自己のナショナリズム理論の普及を図った。1910年12月に結成されたイタリア=ナショナリスト協会 (A N I = Associazione nazionalista italiana) の中心人物。プロレタリア国家の神話によって大衆を植民活動に誘導した『遙かなる祖国』 (La patria lontana、1910年) や『遙かなる戦争』 (La guerra lontana、1911 年) などの著作がある。いずれも19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した詩人のパスコリ (GiovanniPascoli、1855-1912) や作家・劇作家のダンヌンツィオ (Gabriele D'Annunzio、1863-1938) から熱烈に支持された。なお、文中すぐ下にみえる「おおいなるプロレタリア (grande proletaria) という文言は、リビア戦争支持者パスコリが1911年11 月22日、戦傷者を慰労・賛美するバルガ劇場 (Teatro Barga、トスカーナ地方) での集会でなした演説の演題「おおいなるプロレタリアは動きだした」 (La grande Proletaria si è mossa、同タイトルで直後に出版) から有名となった。
*29 [ B注19]サンディカリストの指導者・知識人の一部がコッラディーニのナショナリズム運動に転向するのはイタリア=ナショナリスト協会創立のころである。モニチェッリ (Tommaso Monicelli、1883-1946) は元革命的サンディカリストの作家・ジャーナリストで、ANI機関紙『民イデア=ナツィオナーレ族の理想』 (L'Idea nazionale ) を運営した。フォルジェス=ダヴァンザーティ (Roberto Forges- Davanzati、1880-1936) も同じく元革命的サンディカリストで、ナショナリズム運動の主唱者。1934年には上院議員ならびにファシズム大評議会議員となった。
マラヴィッリア (Maurizio Maraviglia、1878-1955) はジャーナリスト・革命的サンディカリズムの政治家。ナショナリズム運動発起人のひとりで、『民イデア=ナツィオナーレ族の理想』紙の共同編集者。有力一般紙『トリブーナ』 (La Tribuna、1883年創刊) の副編集長もつとめた。
*30 [ B注20]Arturo Labriola, Storia di dieci anni1899-1909, Milano, ed. Il Viandante, 1910 (riedizione a cura di Nicola Tranfaglia, Milano,Feltrinelli, 1975) . 当時のイタリア政治の最新の解説書である同書は、急進的南部主義の典型的な解釈の数個の鍵を利用していた。それはすなわち、ジョリッティ政治体制の構成要素としての社会党、南部農業家層と北部ブルジョワジーとの利害集束、および南部問題における大ラ ティフォンド土地所有問題の重要性等々であった。
*31 [B注21]チェゼーナの『行アツィオーネ動』 (l'Azione) はキリスト教民主主義同盟 (L e g a d e m o c r a t i c acristiana) の機関紙で、キリスト教民主主義派の中心的指導者であるムッリ神父 (don Romolo Murri、1870-1944) が運営していた国民民主同盟 (Lega democratica nazionale) の解散をうけ、1911 年に創刊された。
*32 サルヴェーミニとムッソリーニはこの頃、改良主義社会主義および社会主義陣営の実証主義的含意にたいする論争をつうじて接近していた。その後、両者ともに参戦主義にいたる。しかし、アドリア海問題はふたりの人物・思考法・感情の相異を端的に示唆した。もっとも、ムッソリーニと、プレッツォリーニ (Giuseppe Prezzolini、1882-1982) をふくめ『ヴォーチェ』のその他の作家たちとのあいだではそうした相異は起こらなかった。
Antonio Gramsci, 2000 pagine di Gramsci, cit., p.830, n. 14.
*33 [ B注22]ムッソリーニは、1912年の社会党レッジョ=エミーリア大会から、1914年10月にイタリアの第1次大戦への参戦支持の立場を主張するまで、『アヴァンティ!』紙の編集長だった。その後すぐに社会党を離脱し、自ら『イタリア人民』紙 (Popolo d'Italia) を発刊した。革命的サンディカリストのファンチェッロ (Niccolò Fancello、1886-1944) は自由貿易主義の立場をとる参戦主義者で、1919年9月のダンヌンツィオによるフィウーメ占領にも参加した。ファシズム初期には反ファシストだったが、のちにファシズム運動にくわわった。ランツィッロ (Agostino Lanzillo、1886-1952) は、ソレル思想の普及につとめた革命的サンディカリズムの活動家。『アヴァンティ!』から『イタリア人民』へと、ムッソリーニのあとにつづいた。パヌンツィオ (SergioPanunzio、1886-1944) は、法律家で革命的サンディカリズム分野の出版業者。革命的サンディカリズムからファシズムに転向した者のなかでもっとも影響力をもった理論家のひとりであり、サンディカリズムはマルクス主義の歴史的発展であると述べた。チッコッティ (Francesco Ciccotti、1880-1937) は、改良主義傾向をもつ社会主義系ジャーナリストだが、多面で革命的サンディカリズムとつながっていた。
*34 第1次大戦勃発間近の1914年6月7日、政府は、反政府諸勢力によって計画されていた反軍国主義示威運動を禁じたが、アンコーナでは反軍国主義集会にあつまった民衆に憲カラビニエーリ兵が発砲し、3人が殺害され、20人が負傷するという事件が起こった。
これを契機に、ストライキ、デモ、公安との衝突などがイタリアの諸都市で連続して発生した。なかでも、ローマ、トリーノ、ジェノヴァ、ミラーノ、フィレンツェの諸都市では激化した。マルケとロマーニャの両地域ではムッソリーニやアナーキズム運動の中核マラテスタ (Errico Malatesta、1853-1932) 、当時は共和主義者であったネンニ (Petro Nenni、1891-1980) に指導され、公共建造物の強奪や電信電話局での罷業、軍将校の誘拐などの行為をともなった大暴動に発展した。投入された約10万の兵士による鎮圧行動は、反乱者側に死者13 名と多数の負傷者をだした。
*35 ジョリッティは基本的に社会党改良派との関係を重視してきたが、社会党内の左派勢力の増大に危機感をつのらせた。そこで、1913 年10月総選挙で予想される左翼の躍進を阻止するためのいわば緊急避難策として、それまで冷淡視してきたカトリック勢力との連携の可能性をさぐることになる。
それが、ジョリッティ政府とカトリック勢力との選挙協力、すなわち一人選挙区でのカトリック陣営と自由主義穏健派 (moderati) 候補とのあいだでの秘密協定「ジェンティローニ協定」であった。
両陣営の調整に中心的役割をはたしたカトリック選挙連合議長ジェンティローニ (V i n c e n z oOttorino Gentiloni、1865-1916) の名を冠するこの協定の締結には、有権者数の飛躍的増大を招きよせた男子普通選挙の導入 (1912年) が一大転機となった。ジェンティローニは、各地の教区教会 (parrocchie) の支援をうけた適切な組織網を構築するための政策を7点提起したが、与党系候補者は選挙連合の支援を得るにはこれを受けいれなければならなかった。その主要点は、カトリックがそのほぼすべてを占める私立学校の保護、公立学校での宗教教育、離婚反対、カトリック系の経済組織・社会組織にたいする国家の差別なき扱い等々の「宗教上」 (confessionale) の諸問題にかんするものであった。とはいえ、当時のように政治的にもっとも敏感な情勢にあって、ジェンティローニ協定によって当選した者がカトリック側の提出した条件に賛成であると必ずしも公にする必要がなかったことは指摘しておかねばならない。
むろん、革命左翼すなわち労働者階級の政治的・社会的な抗力が急速に増大していることは、カトリック陣営にとっても、おおきな脅威であったにちがいなく、その意味では、このジェンティローニ協定は与党自由主義勢力と宗教勢力との互恵的な性質をおびていた。ともあれ、この協定によって、一時的にせよ、イタリア統一国家成立以降つねにみられた「国家」対「教会」の対立構図が、「国家+教会」対「社会主義勢力」の対立構図へと変化したといえる。
*36 ソンニーノ (Giorgio Sidney Sonnino、1847-1922) は政治家。1877年、のちに同じく政治家となるフランケッティ (Leopoldo Franchetti、1847-1917) とともにシチリア農民の状況調査を発表し、これは南部主義文書のさきがけとなった。1880年に代議士となってからは歴代政府で財務相や国庫相をつとめ、19世紀の世紀末危機にはイタリア王国の「憲法に戻ろう」 (Torniamo allo Statuto、1897年) と呼びかけた。1906年と1909年-1910年には首相、1914年-1919年には外相の要職についた。政治的色調としては、一般にいうところの自由主義右派に属し、ジョリッティは長年にわたる政敵であった。第1次大戦をはさんだ数年間は対外的なイタリアの顔として、諸外国からは一目おかれる重要人物とみなされた。大戦後のヴェルサイユ条約体制では、イタリア参戦にたいする領土割譲などの利益保証を約したロンドン条約 (1915年4月) の完全履行を連合国にせまり、ウィルソン米大統領と衝突する。
*37 サランドラ (Antonio Salandra、1853-1931 ) はソンニーノ派の保守政治家。1899年以降、農相・国庫相・財務相を歴任した。ジョリッティ政府の解散をうけ、1914年3月に首相となる。第1次大戦の勃発からしばらくは中立を宣言していたが、ロンドン条約の締結によって1915年5月、参戦を決定した。戦後のヴェルサイユ講和条約ではイタリア全権大使となった。
*38 ニッティ (Francesco Saverio Nitti、1868-1953) は経済学者で政治家。南部問題に積極的に発言した。ジョリッティ政府・オルランド政府で閣僚、1919年-1920年に首相をつとめた。比例代表制をはじめて導入し、またフィウーメ占領では実行指導者ダンヌンツィオと敵対した。ファシズム期に亡命し、第二次大戦後に帰国して1948年には上院議員となった。
*39 クリスピ (Francesco Crispi、1818-1901) は政治家。1859年、シチリアで千人隊 (Mille) 行動を準備し、ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi、1807-1882) のシチリア占領時には政治参謀となった。統一国家の誕生とともに代議士となり、内務相をへて、1887年-1891年と1893年-1896年には首相をつとめた。シチリアファッシやルニジアーナ暴動などにたいしては強権的な鎮圧をおこない、独墺二国同盟から1882年の独墺伊三国同盟の形成みられるように、外政では独墺に接近する一方、仏とは経済衝突した。1896年のアドゥア戦闘 (エチオピア) での敗北で首相を辞任するとともに、政治的影響力をうしなった。
*40 サランドラは現在のプッリア州 (Puglia、プーリアやプーリャの訳語もある) フォッジャ (Foggia) 県の町コムーネトロイア (Troia) 出身である。前後の文脈から考えると、この付近の記述は自由主義支配政党内部での南部をめぐるサランドラ-ジョリッティ間の政治的相剋にかんするものであり、したがってここで用いられている「プッリア化」 (pugliesizzazione) もサランドラによる政治・政策の掌握、いわば「サランドラ化」 (salandrizzazione) の隠喩として読みとることができるだろう。
*41 [ B注23]このあたりの記述が難解なのは、おそらく、1917年8月のトリーノのパン暴動について一部の様相がほとんど知られていないことと関係がある。獄中ノートを執筆しはじめたころ (1929年) 、グラムシは、暴動に先んじて、フランチェスコ=チッコッティのおこなった敗北主義同然の調子のきわめて影響力のつよい数回の講演と、『スタンパ』紙で目をひいた同人執筆の無署名記事を想起している。そして、パンの不足は、第1次大戦中の1916年6月に首相となった「ボゼッリ (Paolo Boselli) をトリーノの流血の海に落としこみ、ジョリッティが権力に復帰するための《中継ぎ》 (anello intermedio) として、ボゼッリをオルランド、あるいはニッティと交代させる (これは1917年10月のカポレット戦の大敗直後の倒閣とオルランド内閣の成立によって実現する) 」ことをもくろむ「ジョリッティ的官僚主義」の意図的な「怠サボタージュ業」の結果であるとの確信を表明している。cf. Antonio Gramsci, Quaderni del carcere, I,a cura di Valentino Gerratana, Torino, Einaudi,1975, pp. 107-11 0.
*42 ジョリッティ最後の政権は、1920年6月~1921年7月の第5次・第6次内閣であるので、すくなくともこのあたりの記述はこの頃になされたものと思われる。
*43 [ B注24]補説を終えたグラムシは歴史的現在にもどり、フィアットを協同組合にするという提案について語りはじめる。4月スト (夏時間の導入を不服として労働時間の変更をもとめる労働者たちによってひきおこされたために「時計の針スト」と呼ばれる) は3月29日から4月23日までつづき、他の機械工場からトリーノおよび県のあらゆる労働業種に拡大した。工場占拠は (1920年8月-9月) は、労働時間と残業労働にかんする激しい紛争へとむすびつき、ピエモンテ・ロンバルディーア・リグーリアのおよそ50万労働者をまきこんだ。
*44 プランポリーニ (Camillo Prampolini、1859-1930) はレッジョ=エミーリア地方の社会主義・協同組合主義観念論の普及者。社会党 (1892年) の創立メンバーのひとりで、つねに改良派に所属した。
つよい平和主義からリビア戦争 (1911 -1912) にも反対し、第1次大戦勃発時の1914年にもイタリアの中立を主張する立場をとった。1922年には社会党を離脱し、改良主義政党の統一社会党 (PSU) に参加した。
*45 [B注25]このエピソードは、グラムシらON (オルディネ=ヌオーヴォ) 派の同志テッラチーニ (Umberto Terracini、1895-1983) がおこなったイタリア機械製作所の工場集会での発言をいう。
cf. “Un asino bardato”, non firmato,《OrdineNuovo》, 9 febbraio 1921, in: Antonio Gramsci,Socialismo e fascismo, cit., pp. 64-67.
*46 [ B注27]行間に、“abbia posseduto”[過去もそうであった]の語句が追記されている。
*47 オルランド (Vittorio Emanuele Orlando、1860-1952) は法律家・政治家。カポレット敗戦後の1917年10月に首相に就任し、戦後のヴェルサイユ講和条約体制ではイタリア政府の首班として参加。イタリアのダルマツィアとフィウーメの領有に反対したウィルソン米大統領と対峙し、まもなく倒閣。
ファシズム体制成立当初はこれを容認したものの、のちに反対にまわり、1924年に政界を引退する。
ディチェザロ (Giovanni Antonio Colónna diCesarò、1878-1940) は反ジョリッティ派の政治家 (1909年から1924年まで下院議員) 。第1次大戦では参戦を主張。急進党から社会民主党へと所属政党を変更した。1922年のファクタ内閣とムッソリーニ内閣時の1924年に郵政相をつとめたが、のちに反ファシズム政権の立場をとる。
*48 アメンドラ (Giovanni Amendola、1882-1926) はジャーナリスト、政治家、ピーサ大学哲学科教員の経験もある。自由民主主義者であり参戦論者で、大戦では自ら志願兵となった。1919年に下院議員となると、翌1920年のニッティ内閣で財務副相、1922年のファクタ内閣では植民相となる。ファシズム体制にははげしく抵抗した。グラムシが拘束される7箇月前の1926年4月、亡命先のカンヌでファシズム体制の刺客により暗殺された。
*49 [ B注29]国民同盟は、社会党代議士マッテオッティ (Giacomo Matteotti、1885-1924.6) が国会でファシストの選挙不正を指摘したことでファシストによって誘拐・殺害された事件後の1924年11 月に、アメンドラその他の反ファシズム知識人が結成した政治組織で、南部でそれなりの発展をみせたが、1925年12月に当のアメンドラにより事実上、解散された。cf. “Il Mezzogiorno e il fascismo”,non firmato, in: Antonio Gramsci, La costruzionedel partito comunista 1923-1926, cit., pp. 171-175.
*50 [B注30]この「文化的」 (culturali) の語は行間に書かれている。
*51 [ B注31 ] カラーブリアには、「労働者協会がいくつかあり、数軒の店先にはつぎのような看板がみえる。『しかじかの住民 (cittadino) よろず屋』と。また、別の場所では『ショペライのカフェ』 (Caffe degli scioperai) という看板をみた。この話題の委細を知る時間的余裕もなかったし、この外見に対応する事実およびなにがこの事実の本質であるのか、まったくわからない」。LeopordoF r a n c h e t t i , C o n d i z i o n i e c o n o m i c h e a damministrative delle province napoletane. Abruzzie Molise. Calabrie e Basilicata (edito insieme conSidney Sonnino, La mezzeria in Toscana) ,Firenze, Tipografia della Gazzetta d'Italia,1875, p. 104.
*52 グラムシは獄中から義姉タニアに宛てた書簡のなかで、自らの生まれについて語っている。「わたし自身、なんの血統・門地 (razza) もありません。父親はアルバニア系です (一家は1821年の戦争後あるいは戦争中にエペイロス (E p i r o :Epirus) を脱し、ほどなくイタリア化しました) 。
祖母はゴンザレス (Gonzalez) 姓で、南伊の某イタリア- スペイン系一族の出です」。A n t o n i oGramsci, Lettere dal carcere, a cura di SergioCaprioglio e Elsa Fubini, Torino, Einaudi, 1965,pp. 506-507:グラムシ (大久保昭男・坂井信義訳) 『愛よ知よ永遠なれ』3、大月書店、1982年、52頁 (訳文は同一ではない) 。cf. Antonio Gramsci,The Southern Question, translated by PasqualeVerdicchio, Tronto, Guernica, p. 92, n. 32. なお、上引のすぐあとには、クリスピもアルバニア人だったし、アルバニア人の学校で学び、アルバニア語を話していたし、イタリアではこうした出自などは一度も問題にされたことはないと記している。ibid.
*53 [ B注32]「フェッラーリにおける『農業改革』提案は、フェッラーリが絶ア ナーキスト対自由主義者 (libertari) のあいだにかつてもち、現在ももちつづけているまずまずの人気を説明する。フェッラーリとバクーニンとロシアのナロードニキ全般とのあいだには多くの接点があった。田舎の無産者 (nullatenenti) は『総破壊』にむけて神話化されているのである」。Antonio Gramsci, Quaderni del carcere, cit.,p. 962.
*54 [ B注34]イタリア割引銀行は、1914年12月30日、イタリア県信用協会 (Società italiana di creditoprovinciale、前Banca di Busto Arsizio) と清算中の銀行協会 (Societa bancaria) との合併によってローマを本拠地に設立された。第1次大戦により、軍需大産業数社の融資・販売促進の役割を要請された。終戦直後の2年間で増大した膨大な数の帰還兵により、イタリア銀行 (Banca d'Italia) への負債は1921年12月に13 億リラ、同年12月には17億リラに上昇した。1921年12月29日、割引銀行へ支払い猶予 (モラトリアム) を発令したが、その後、解散する。
なお、割引銀行の倒産の引き金となったのは、戦争中に急成長した機械・兵器産業企業アンサルド社 (Ansaldo) の倒産であった。同社はムッソリーニの運営する新聞『イタリア人民』のパトロンでもあった。
*55 原語は“cultura media”。「中間文化」という訳語も可能だが、ここでは、マルクス主義的含意から“media”を「中間階級の」と訳した。
*56 [B注36]ボレッリ (Giovanni Borelli、1867-1932) はミラーノを本拠地とする有力紙『コッリエーレ=デッラ=セーラ』の編集長、『自由主義理念』 (l'Idea liberale) 主幹 (1895-1900) をへて、1901年にイタリア青年自由党 (P a r t i t o l i b e r a l egiovanile italiano) を結成した。同党は代表君主制 (monarchia rappresentativa) の強化、人民の要求と改革政治を代弁するブルジョワジーの覚醒を提起した。失イ ツレデンティズモ地回復主義運動 (irredentismo) や植民地主義、ラテン=地中海の復活をとなえる青年自由党は、連携する多数の地元機関誌紙を有し、そのなかにはミラーノの週刊紙『行動』、フィレンツェの『刷新』 (Il Rinnovamento) 、マントヴァの『自由主義の覚醒』 (R i s v e g l i oliberale) 、ボローニャの『進めサヴォイア』 (Avanti Savoia) 、『夜明け』 (L'Alba) 、『自由主義理念』 (同上) などがあった。ボローニャの日刊紙『祖国』が起源である。
*57 ファシストの手先によるテロが原因となり亡命先のパリで客死したゴベッティ (Piero Gobetti、1901-1926) についてはここでは多言を避け、とりあえず最近刊行された文献を一点あげておく。
中村勝己「ピエロ・ゴベッティのラディカル・デモクラシー―《自由主義革命》論の構成要素」 (上・下) 、中央大学法学会『法学新報』n. 11 4 (7・8;9・10) 、2008年3月。なお『自由主義革命』は1922年 (2月12日) に創刊され、1925年 (11 月10日号) に終刊となった。同誌のサブタイトルには “Rivista storica settimanale di politica” (週刊政治史論誌) と書かれていた。
*58 [ B注37]ゴベッティは日刊紙『オルディネ=ヌオーヴォ』で劇評を担当した。
*59 [ B注38]ゴベッティの件でグラムシと交わした議論について、イタリア共産党初代書記長で最左派の非妥協派であるアマデーオ=ボルディーガ (Amadeo Bordiga、1889-1970) は、テレビのあるインタヴューでつぎのように語っている。「周知のように、グラムシはすべての反ファシズム勢力との合意をとりつけることが有益であると見ていたようだ。そのなかにはゴベッティのような自由主義者もふくまれていた。だからグラムシはゴベッティと良好な関係をのぞんでいた。わたしの全体方針にもとる立場へとグラムシをうながすことは当然できなかった。あのころ一度グラムシに向かって次のように発言したとおもう。―わたしにひとつおおきなプレゼントをくれないか。ゴベッティの雑誌のコレクションをわたしのために手に入れてくれないか、と。雑誌とは『自由主義革命』のことだった。グラムシはわたしのこともゴベッティのこともよく知っており、わたしがゴベッティの方法論を手厳しく批判しようとしているのをすぐ察したので、グラムシはその発言に苛立ったのだ。瞬時にして、わたしに答えた。
だめだ、アマデーオ。怒らないでくれ。そんなことをしてもきみは喜びはしない。わたしにとっては喜ばしいことでも。ゴベッティの話題にかまわないでくれたまえ、と。わたしはわかってやらねばならなかった。それはたぶん、弱さからでたものか、あるいはグラムシという人柄がその青い目のみせる偉大なる誠実と知性によっていだかせた共感だった。わたしは言った。―わかった、アントニオ。安心しろよ。この件についてはわたしはなにもしないから、と。そして、わたしはそれから二度とゴベッティを攻撃しなかった。
Sergio Zavoli, Nascita di una dittatura, Torino,Sei, 1973, pp. 189 sgg.
*60 ドルソ (Guido Dorso、1892-1947) の簡単な紹介とかれの南部革命論の一端にかんしては、本誌前号の拙訳・解説「グイード=ドルソ『南部革命』」 (前出) を参照。
*61 『労スタート=オペライオ働者国家』誌にはじめて掲載されたとき、この論説はピリオドで終わっていたが、未完成論文であることを明示するためにか、最後を[ Qui siinterrompe il manoscritto] (ここで手稿は中断している) と記すアンソロジーも複数存在する。e.g. Antonio Gramsci
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